青い鳥と手に入らないもの
映画「耳をすませば」で、主人公の雫は夢をみる。早く、早く、と男爵の声に急き立てられて宝石を次々拾い上げるが、どれも手にとった瞬間に輝きを失ってしまう。ついにひときわ光り輝くものを見つけるが、それは鳥のヒナの暗い死骸だった。
これについての説明は本編にない。おそらく『青い鳥』になぞらえた部分なのだろう。モーリス・メーテルリンクによる『青い鳥』では、主人公の兄妹チルチルとミチルが夢のなかで青い鳥を探し回る。初めてつかまえた青い鳥は籠のなかで黒い鳥になり、青い鳥の群れはつかまえると死んでいく。ついに手に入れた青い鳥も、赤い鳥になってしまう。
雫やチルチル・ミチルが探していたものは、手に入れた瞬間にその価値を失っていった。これらの物語は “手に入れたいものが必ず手に入るわけではない” ことだけを示していたのだろうか。彼らは、自分が何をほしいのかさえ知らなかったはずだ。もし知っていたことがあるとすれば、それはきっと “何かに惹かれ続けている” という感覚だっただろう。
やや気恥ずかしいが、自分には「耳をすませば」におかしくなっていた時期がある。主人公の芝居がかった振る舞いに鼻を鳴らしてもいたが、彼女の「憧れ」の気分には、かなりやられていた。
しかし、このような弱点には長いこと無自覚だったようだ。京都みなみ会館ではしばしば予告編からわけもなく涙していたり、大学での論文のテーマに「祈り」を含めて外せなかったり、梁楷の「李白吟行図」が忘れられなかったり――そのあたりを思い合わせていれば、つまり “青い鳥” に惹かれていたことに気づいてもよかったはずだ。
欲しくても得られない、と表現すると欲望の定義にも似通ってくるが、どちらかというと中二病のほうが似ているだろう。私にもそういう向きが大いにあっただろうが、残念なのはそれ以外の表現を知らなかったことだ。
以下は冒頭と同じくノヴァーリスについてだが、私たちもまた、自分自身の感覚にもっと言語的な丁寧さをもって向き合ってもいいはずだと思う。ちなみにノヴァーリスは、18世紀のドイツロマン主義の詩人・作家だった。彼の小説『青い花』が、『青い鳥』のモデルになったという。
そういった経緯から、私は今さら、この感覚を掘り起こそうとしているのかもしれない。このあいだ歌詞にふるえてからというもの、歩いていると必ず、頭の中でこの曲が流れつづけている。
直接触れられなくても、そのことを、そのまわりを、ただ大切にすること――。