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手書きの「近さ」と「重さ」

手書きの手紙を受け取った体験のない人も、そろそろ増えている気がします。

あるいは手紙からメールへ移っていった世代の人たちは、仕事で、あえて手紙を手書きでしたためるよう求めたり、求められたりしたかもしれません。

どうやら手書きには、用件だけで済まない事情があるようです。
たとえば、取引先へ「真心」を伝えるには、手書きがよいとも言われますね。しかもこういった主張がされるとき、“手書きは「真心」を伝えるための手段だ” という表現さえも避けられることがあります。私は、この微妙なニュアンスを考えると、よく分からなくなってしまいます。

とくに世代が若くなるほど、この戸惑いが大きくなる気がします。だって、それを例えて言えば、手紙からメールに――手書きからデジタルに移った時期の、あの「顔の見えなさ」への空を掻くような苦慮はもはや経験しようがないのですから。

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年寄りめいたことを言いましたが、私は少なくとも事務的な仕事の上で、手書きは基本的に意味がないと思っています。
ただ、手書きには「重さ」があるとも思います。見れば見るほど書いた人の人となりが感じられる気がするのです。

筆圧、文字の大きさ、とめはねのクセ、漢字とひらがなのバランス、書き出しの位置、想定される腕の置き方、手首の可動範囲、書くスピード…。それらの要素は、字の上手下手だけで収まる話ではありません。

ためしに、人の書いた字を完璧にマネて書き写してみてもいいでしょう。
思った以上に難しいはずです。書写とは、先ほどの目に見える特徴だけでなく、それらを支える目に見えない特徴に注意するということでもあります。

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その点、規格化されたフォントは「軽い」です。特徴をまとめて、そろえ、簡略化しているので、分かりやすいとも言えるかもしれません。だからこそ、日常で気軽に使えるようになったのでしょうね。

だとするとタイポグラフィは、元のフォントに “キャラ付け” する作業でもあるでしょう。イラストレーターが「素体」(簡易な人体像)をもとに人の姿を作っていく作業とも似ています。ただし元のフォントを選ぶ、という初めのステップもあるので、フォント=「素体」と言い切るには無理がありますが。

ともあれテクニカルに文字の並びをデザインするタイポグラフィは、印刷術が発明されてからだといいます。そこには技術的な「深さ」はあっても、「重さ」はあまりなさそうです。

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書には、本当に人さまざまのスタイルがあります。現代に残る有名な書家の作品だけでも、たくさんの書き方があり、書いた人の数だけの「重さ」が感じられます。たとえば「百人一書: 日本の書と中国の書」という本では、日本と中国の書が100人分紹介されています。

さすがに、今に生きる人たちや自分の書いたノートよりも「重さ」を感じないとはいえ、じっと見ていると、ちょっとクラクラするものがあります。これは「近さ」ともいえそうです…そう、自分との「近さ」も、手書き文字から感じるファクターなのですね。

手書きに「近さ」を感じられるから、書にハマる人が出てくるのかもしれません。
書いた人の思いはうかがい知れないけど、なんだかすごい。自分でもこういう文字を書いてみたい。もっとたくさんの書家の字を見てみたい、といったふうに。

ほどよく「近さ」を楽しめるという体験は、古来からつづく趣味の一つであり、30歳を過ぎてオタク趣味を失った人たちの救いの一つとなるのではないでしょうか。

これを穿って見れば、もはや近づけないと思えば思うほど、憧れや慕わしさという「近さ」を求める思いが強くなるということなのかもしれません。
近さや遠さ、重さや軽さはそのまま相手との関係性を表すわけではないようです。

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