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ルソーの例外状態

これは、レポートとして出したものを微調整してここにもってきたものだ。
表紙の画像は、ドイツ革命の様子。3月革命ともいう。例外状態と呼ぶことができるかもしれない。

I)           その章について、著者の議論を簡潔に要約
 すこしかかわるので、前の章、「護民府について」も軽く要約しよう:「国家を公正するさまざまな官職のあいだで適切な均衡がとれない場合や...官職のあいだの均衡がたえず変動する場合」には、「それぞれの官職の均衡を正しい状態に戻す役割をはたす」「特別な官職がもうけられる」と書く。でもしかし、この職が職権を超越するとき、「僭主政治へと堕落してしまう」。それを防ぐ「最善の方法は、この団体を常設のものとせずに、一定の機関だけ機能を停止させ」るべきだとする。
 これの内容に続く次の章、「独裁について」でも、ルソーは官職と権限の話をつづける。
 「すべてのことを予見できない」のは、立法者も例外ではなく、そんな立法者がつくる「法律は柔軟なものではなく、出来事の成り行きに順応することはできない」うえに、場合によっては、「(法律が)有害なものとなることもある」。なぜなら、「法という形式のために順を追って作業することが必要になるが、この作業が緩慢なものとなり、ときにはその時間をかけることを状況が許さないことがある」。そんなとき、「危機に瀕した国家が、法律のために滅びる」。だから、ルソーは「スパルタですら」と古代ギリシアの都市国家のひとつを例にもちだし[1]、「法の効力を停止する権限まで否定してはならない」とする。もちろん、そんな「危険を冒してもよいのは、最大の危機の場合にかぎられる」と、注意する。
 段落をかえて、ルソーは、権力を委託する2つの方法を説明する。「政府の一人または二人の成員に、政府のすべての力を集中させるの」が一つの方法で、これなら、「法律の権威に手を加えることなく、執行の形式を変えるだけですむ」。二つ目は「最高の指導者一人を任命し、その者に全ての法律を沈黙させ、主権をしばらく停止させる」ものだ。そんなときでも、やはり「一般意志が存在すること、そして、人民がなにより目指すものが、国家の滅亡を防ぐことであるのは疑問の余地がない」と自明視する。

ヴォレロ・プブリリウス;護民官の権限を強化した。下にみえるのはファシズムの言葉の由来になったファスケスか。刃がみえない。


 その後、古代ローマの執政官を例にとる。最初の方法は、「執政官に共和国の安全を守る任務を与えた」のが例で、二つ目は、「二人の執政官のうち一人が独裁官を任命した」のが例だ。
 初期は「国家がその政体の力だけで自立しうるほど、確固とした基礎をそなえていなかったから」「独裁を頻繁に利用した」けれども、「末期になると、ローマ人は…独裁の制度をあまり利用しなくなる」。ルソーは、カテリーナやキケロ、ポンペイウスなど人名を挙げながら、「ごく短い任期を定めておき、この任期はいかなる場合にも延長できないようにしておく」べきという結論を導く。そして、任期について、ローマでは「任期は六ヶ月に限定されたが、その多くは任期が満了する前に辞任している」ことをつけくわえ、「ほかの計画を企てるような時間は与えられていなかった」と説く。
 

キケロのカテリーナ弾劾演説


II)         あなたなりの批判的考察
 近代民主主義の理論の大きな要素、社会契約説を唱えた思想家、ホッブス、ロック、モンテスキューとならぶ、ルソーの、この議論は、近代民主主義の擁護者らしくないものである。場合によっては、法律よりも優先されるものがあるとしているのだ。そして、そのとき、独裁がいいのだ、と。ただ、このような議論は、ルソーにかぎった話でもないことは、書くに値しよう。ルソー以前では、マキャベリ『ディスコルシ』もあるし、シュミット『政治神学』[2]や『政治的なものの概念』でも、マルクス『ゴータ綱領批判』でも、同じような議論をしている(そして、それをバクーニンは、『神と国家』にて批判する。)。そして、シュミットのだした例外状態という概念をつかって、アガンベンも、ベンヤミンなども引用しながら『例外状態』にて思想を深めている。ルソーより後の思想家をあげたが、ルソーよりも前にもいただろう。なぜなら、ラテン語の格言にもあるし、法制度にもある。

世界恐慌の影響をうけたドイツ。紙のマルク(パピエルマルク )の価値がさがっておもちゃになっている。このころ、ヒンデンブルクによる緊張令が濫発された。


 必要ハ法ヲバ持タズ。Necessitas non habet legem. このラテン語の法学の格言、それも、今も刑法にて引用される格言は、法律の状態の例外の基礎をなしている必要な状態が法的な形態をとることがないことをおしえてくれる。このことばが、ルソーが例にもあげたローマの共和制のときにつかわれたことも否めぬ。そんな状況を、ラテン語でユースティティウムJustitiumというのだ[3]。法の停止という意味である。ルソーがいっているのも、まさにこれのことだ。このラテン語は、日本語の法学において、緊急避難ともいわれており、補充性の要件や法益の権衡などと一緒になれべられる。
 わたしは、この考え方、つまり、既存の法律だけではうまくいかぬときがあるという指摘を批判しない。一部、やむを得ないことがあるとおもう。むしろ、わたしが批判することは、この既存の法律をとめてよいということを、法律のなかにくみこむこと、つまり、法律で法律をとめてよいとすることである。国家の存続に関わる危機のとき、独裁がおこなわれるのは仕方がないけれども、法律のなかに、上の理論、つまり、「仕方がないから独裁を許す」ということを書くべきではないといいたい。むしろ、法律すらも、相対化されるときにこそ、独裁はおこなわれるべきであり、法律の枠組みのなかで、独裁がおこなわれるのは、望ましくない。
 ルソーは、独裁官の任期を「ごく短い任期に定めておき、この任期はいかなる場合も延長できないようにしておくことが大切である」と書いている。ここから、任期付きならよいということになるであろう。しかし、任期を勝手に独裁官が伸ばせば、どうなるか。法学的におかしいといえるかもしれないが、それは言葉だけである。任期の延長を、力で止めることができない。任期を伸ばそうとする、独裁官にとって、約束をまもる必要などないのだから、好きなように伸ばし放題だ。法学的に伸ばせないのであれば、法律を無視すればいい。あるいは、法律すらかえてしまえばいい。革命を用意して、あたらしい国を建国して、権力は自分がもてるようにすれば、ずっと死ぬまで、独裁官になれる。そして、こう思って任期を伸ばした独裁官を、独裁官ではない物が、とめる力は、もはやない。なぜなら、対抗しうる力はすべて独裁官がもっているからだ。そして、そんな独裁官に正統性を、独裁官の発生以前の法律はあたえてしまう。

三河一向一揆


 ここで思い出すのは、三河一向一揆での徳川家康のことだ。叛乱をおこした三河三ヶ寺との和議で、寺院は以前と同じにようにするすると取り決めた。ただ、寺院からは武器を没収となる。その後、徳川家康は、約束を守らない。約束を反故にされた寺院は反論するも、しかし、武器のない寺院は反抗できない。"元"通りの約束を、「元は野なれば」と徳川家康は読み替えて「元通り」(?)野に変えてしまった。このような状況では、力が、ものをいうからだ。同様の例え話は、韓国の四捨五入改憲でもいうことができよう。本来一票たりないものを、元は野ならばの理論と互角の、無理やりこじつけ、数学から(?)四捨五入の理論をくっつけて力で決めるのである。あの、ナポレオンも、一時的な執政官から、終身独裁官になった。

ナポレオンの皇帝への戴冠式 


四捨五入改憲。崔淳周国会副議長が改憲案可決を宣言したことに抗議する李哲承


 このはなしから引き出せることとして、言葉としてかかれる法の力と、暴力Gewaltの力は、暴力Gewaltの方が圧倒的に強いということだ。だから、上の例にかぎらずとも、法治主義が成熟した日本においても超法規的措置というのもとれるのである。
 この上、独裁官の任期も、考えてみれば不思議なものである。独裁官の任期の根拠はなんだろうか。法律か? 否、法律は停止している。だから、法が根拠になるものも、停止するだろう。なにが、独裁官の任期の根拠としてあるのだろうか。おもいつくのは、独裁官彼自身しかない。もし、彼自身が独裁官としての任期の根拠なのであれば、彼は自分の独裁官としての任期を伸ばせるであろう。もし、彼ではないのであれば、なにが根拠たりうるのか。あるいは、根拠がないのか。根拠がないならないで、任期など伸ばしたい放題だろう。
 わたしは、以上の議論において、法治主義を相対化した。必要は法をいらずを引用しながら、独裁も、法律の外でやむをえないとかいた。ここに、批判する声がきこえてきそうである。だがしかし、やはり、必要は法を必要とせずである。法治ができないときには、しかたがないとおもう。このようなときに、法を相対化していいのか、という批判もきこえてきそうである。そして、わたしは、法を相対化せざるを得ないとおもう。状況が、法を相対化するのである。そのときのはなしをしているのであって、自由に、恣意的に法律を相対化していいものではないのだ。
 話をルソーの『社会契約論』にもどそう。ルソーは、任期を定めれば安心だとしているが、そんなのは能天気すぎるのだ。ルソーが書くべきだったのは、(彼は例外状態という言葉をつかっていないけれども、後世のことば使いでいうところの)例外状態における独裁のやむなきことと、それでも、それを法のなかで認めるわけにはいかぬということだ。法の外に、一種の、例外状態として、独裁があるべきなのだ。ルソーのはなしたフランス語で法律はdroitである。このフランス語の語は、「正しい」と、同じ語なのだ。法律こそ、正しさが宿ることを示唆する。法律の(=正しい)なかに、独裁をいれたら、独裁が正しいことになる。だから、法の中に、独裁があるべきなのではないといっている。だからこそ、法学的には、独裁官なるものはあるべきではない。それでも、必要は法を持たざる故、已む無しということだ。もちろん、ここでの已む無しは、法学的な意味においてではない。むしろ、純粋で素朴で、常識的な意味において、だ。
 まとめると、例外状態は、法律の外にあるべきなのだ。例外状態において、必要とあらば、独裁でもやむをえぬことはあるだろう。しかし、それを、民主的な法体系のなかにくみこむことが、よくないのだ。独裁者を、法律が正当化、あるいは、正統化するべきではないからだ。
 
 
III)       参考文献、本文に出典を明記しなかったもの
アーレント『革命について』
蔭山宏『カール・シュミット   ナチスと例外状況の政治学』
桑瀬章二郎『今を生きる思想 ジャン=ジャック・ルソー 「いま、ここ」を問いなおす』
桑瀬章二郎『ルソーを学ぶ人のために』
高窪貞人ら『刑法総論』
デリダ『法の力』
シュミット『現代議会主義の精神史的状況』
シュミット『政治的ロマン主義』
シュミット『政治神学再論』  シュミットは、ことあることにルソーをもちだして、理論をひろげる。
中里良二『人と思想 14 ルソー』
仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』
仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』
リーウィウス『ローマ建国史』  
  ちなみに、マキャベリ『ディスコルシ』と上に書いた書の原題を訳すと、『ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考』だ。
ルソー『コルシカ憲法草案』
ルソー『人間不平等起源論』
レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』



[1] スパルトが民主政の理想だとは思わぬ。だが、民会など理想としてみられる特徴おももっている。それでも、この特徴は、アテネと関連付けて考えるのが一般的だが。なにより、スパルタで民主政が定着したとは、あまり思われていない。アテネとちがって。
[2] このなかでも、ルソーが引用されている。
[3]これらのラテン語に関しては、アガンベン前掲書から学んだ。

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