「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」 昔、中国は唐の時代。白居易という役人がいた。白楽天という名の方が馴染み深いかも知れない。 ある時、杭州の長官に赴任した彼は、鳥巣禅師と呼ばれる道林という僧侶を訪ね、仏教とは何を教えているものかを尋ねた。 その問いに答えたのが、冒頭の言葉。七仏通戒偈という。 要するに、悪いことをせず、良いことをして、清く正しい人になりましょうね。ということである。 これを聞いてどう思うだろうか?私は、「え、そんなこと?」だった。 事実、白
「子供叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」 子供と大人の違いはなんだろう。と思うことがある。 年齢は一つの目安になるかもしれないが、それだけではないように思う。 小さな子供でもしっかりとした考え方をしている子がいるし、いい大人でも自分勝手な人間だっている。 精神は、悪戯に年月を重ねたところで鍛えられない。 私は、大人と子供の違いは、責任が取れるかどうかだと思う。 自分の行動に、発言に対して、責任が取れるのが大人。取れないのが子供ではないかと思う。 そこで、
お久しぶりです。 ずっとサボっておりました。すみません。 理由は、特に無く。何故か書く事自体が億劫になっていました。 今日、折りたたみ式のキーボードが届いたので、久々に何か書いてみようかな。と思い立ちました。 また、緩やかに再開しようと思います。
「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」(ヴァレリー) 太宰治の『葉』という小説に出てくる言葉だ。 天才と呼ばれる人がいる。それは大抵、憧れを伴って語られるように思う。 自分にも才能があれば。そう思うことは、一度や二度ではない。 持たないよりは、持っていたほうが良い。それは、真理だと思う。 けれども、持たざる者には持たざる者の、持つものには持つ者の苦悩があるのもまた、事実だと思う。 地位を得た人には護衛がつくし、お金持ちの家ほど塀が高くなる。 得られぬ辛さ
水戸黄門こと水戸光圀は、誕生日には決まって粗末な食事をとっていたらしい。 この日こそ、最も母を苦しめた日であるから。ということだ。 誕生日といえば、盛大に祝い、美味しいものを食べ、欲しい物をもらう。というのが定番な気がする。 光圀のその姿が、だからこそ一層眩しく映るのだろうなぁ。と思った。 そんな事を、思ったのは、自分が今日誕生日だったから。両親や妹達、家族や友達からお祝いの言葉を頂いてとても嬉しかった。 気付けば厄年も過ぎ、44になった。この歳まで健康な身体に産ん
「まず、三悪道を離れて人間に生まるること、大なる喜びなり。 身は賤しくとも畜生に劣らんや 家は貧しくとも餓鬼に勝るべし 心に思うことかなわざれども、地獄の苦に比ぶべからず」(横川法語) 『花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき』昭和の小説家、林芙美子が詠んだ歌にあるように、人生は苦しいことの連続だとも言える。 目覚めから眠りにつくまで、健康で仕方ないと、胸を張って言える人はどれだけいるだろう? 何もかも上手く行って、嫌なことが一つもなく、心に一点の曇りも、将来に少しの不安
「玉磨かざれば光なし」 子供はみな天才だとよく言われる。事実、多くの子には無数とも思える可能性があって、それらを伸ばす手伝いをしてあげられたら、と親の立場では思う。 ところで、バブルの頃より貧しくはなったとはいえ、日本はまだまだ、豊かだ。 子供が習い事など当たり前だし、食べるに苦労する、とか、誰々と比べてあれがない、これがない。と言うことも少ないのではないかと思う。 貧困が云々かんぬん、というニュースが、流れる時点で、それは珍しいことなのだ。 こういう言い方は子供が
「幼蛇の時は数寸の傷でも、大蛇となった時には数尺になる」(新井白石) 江戸時代、6代将軍家宣に仕え、「正徳の治」と呼ばれる善政を手助けしたという新井白石。 彼は幼少期、貧しいながらも聡明なことで知られていた。 ある時、それを聞きつけた、さる商人が資金援助を申し出た。代わりに、自分の娘との縁談を持ち掛けた。 その際、白石は冒頭の台詞と共に断ったそうだ。 お金のために結婚をした。という評判は、いずれ自分が出世した時に悪評の素になると考えての事だろう。 私は
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」(山本五十六) 褒めることは難しい。長所を見つけることよりも、短所を見つける方が、遥かに簡単だからだ。 やって見せることもなく、言って聞かせる事もなく、やらせることもなく、褒めることさえしなければどうなるか。 自分が健康で、強いうちは周りはイエスマンだらけだろう。誰も信用せず、強い自分を見せれば、畏怖の対象になるかもしれない。 でも、人は誰でも衰えが来るものだ。 そうした時に、ふと周りを見たら誰
「悠々たる哉天壌。遼々たる哉かな古今。五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価あたいするものぞ。万有の真相は唯一言にして悉つくす。曰く「不可解」。我この恨みを懐いて煩悶終ついに死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。」(藤村操) 明治36年。北海道出身の旧制一高生、藤村操が16歳の若さで華厳の滝で投身自殺をした。 当時は一高へ入り、帝国大学に進学することがエリー
ある人が、地獄と極楽を訪れた。 まず、訪れたのは地獄。人々はやつれながら責め苦を受けている。 そこで、食事の時間になった。 地獄の食事とは、どれほど貧しいものかと覗いてみると、山海の珍味が並んでいる。 これほどのご馳走が出ているのに、なぜ?と疑問に思ってふと見ると、罪人たちの手には身の丈ほどもある箸が握られている。 鬼たちの監視のもと、長い箸で必死に食物を口に運ぼうとするが、当然上手に食べられない。 これもまた、地獄の苦しみかと納得してその男、今度は極楽へと移動し
「悪法もまた法なり」(ソクラテス) 法律やルールというものは絶対的なものではない。 それは、時代によって変わるものだし、その時々で、多くの人にとって都合がいいから決められているものだ。 だから、時には不合理なこともあるだろうし、不条理な事もあるだろう。 けれども、悪法もまた法なり。それは間違っているから、と背けば、当然に報いを受ける。 その覚悟があるか否か。 ソクラテスは、覚悟を持って行い、死罪を受け入れた。 覚悟をもたずに、こそこそと法に背くのは、ただの犯罪だ
「智慧あるものに怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」(釈迦) 批判をすることは簡単だ。 それは大抵、相手の逆張りをすれば出来てしまう。 とにかく、その人の一挙手一投足をもって、悉く反対の事を言ってしまえば成り立つ。 理屈と膏薬はどこへでもつく。 それらしい言葉で言いくるめれば、立派な反対意見の完成だ。 対して、相手を尊重し、同意して共感する事の何と難しい事か。 人は本質的に、簡単な方に流され易いと
「過去にも今にも未来にも、皆にて褒める人はなく、皆にてそしる人もなし」(法句経) 子供が生まれ、世界が広がっていく様を見る願うことがある。 どうか、皆から愛される人になってくれますように。と。 とはいえ、遍く全ての人から愛されることは難しいし、嫌いな人が一人もいない人間など、いないのではないだろうか。 どんな聖人君子然とした人でも、人格的に優れた人でも、苦手とする人はいるものだし、批判されることもあるものだ。 それでも、順境にいる時はそんな事は気にもならない。重要な
「私は、何も学ぶべきでない愚かな人に、会ったことはない」(ガリレオ・ガリレイ) 人と話すのが好きだ。それが、雑談であればあるほど楽しい。 かしこまった、形式張った話し合いだと、その人自身が見えてこないからだと思う。 雑談のような、心の構えを取っ払った瞬間の言葉が、その人自身の生き方や、経験や、趣味嗜好が色濃く出て、また新たな知識を得られる。 その瞬間がとても好きだ。 知識は力だ。そして、財産だ。それは、人に分け与えても減らないどころか、さらに増える、稀有なものだ。
「子供叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」 うんうん、そうだよな。 と、思ったのが20代の頃。 今は親となり、若者とも、老人とも言えない年齢になった。 そうすると、子供は叱るし、年寄は笑う(というより、自分もこうなるのかなぁと、不安に感じる) もちろん、頭ではわかっている。子供の姿は過去の自分。実際自分も同じようなことをしてきた。 お年寄りの姿は未来の自分。というより、少し走っただけで息が切れたり、夜に細かい字が読みにくくなったり、雨の日に階段を登ると膝が痛