見出し画像

恥を晒しながら、それでも生きる

『欲望』。1976年発表。ディランの人気作、代表作としてよく取り上げられる作品。

黒人ボクサーのルービン・カーターの免罪事件、その根底にある人種差別を糾弾する『ハリケーン』が一曲目。怒りに満ちたディランの声と言葉、躍動感のあるバンドの音に引き込まれる。ピラミッドの墓泥棒が主人公の2曲目『イシス』もそうだが、ディランが語り手に徹して様々な登場人物の物語を歌う、バラッドものが本作は多い。

他人とのどうしようもない距離への絶望感を歌う『コーヒーもう一杯』、心優しいギャングの生涯を描く11分超えの長編『ジョーイ』、スペイン語歌詞も出てくる、メキシコのお尋ね者の男の悲劇『ドゥランゴのロマンス』など、さすがディランだなという、深みのある歌が胸を打つ。

またサウンド面では、ほとんどデュエットのようなエミルー・ハリスのバック・ヴォーカル、そしてアルバム全般で切なく響くスカーレット・リヴェラのヴァイオリンと、一聴しただけで、この二人の女性ミュージシャンの存在感が際立っている。

僕が一番好きなのは、8曲目『ブラック・ダイアモンド湾』。地震で犠牲になる直前に、ある男女が恋に堕ちる物語。ユーモアも交えながら、冷徹に、でもとても優しい視線で、ディランは歌う。傍から見れば何やってんだって呆れるようなことでも、当事者にしてみればそのときそのときは真剣だったりする。恥を晒しながら、それでも燃えるように生きたいという人間の「欲望」と悲喜劇。ボブ・ディランはずっとそういうことを歌っている。

と、ストーリーテラーとしてのディランの魅力に感心しながら聴いて油断していると、最後にズドンと落とされる。ラストの『サラ』。当時、不仲にあったと言われる、妻サラに捧げた曲。これはやばかった。子供たちとの思い出も持ち出しながら、いかに自分があなたのことを愛しているかと、縋るように生々しく吐き出すボブ・ディラン。素を出している曲はもちろんたくさんあるが、この曲の無防備度はディラン史上でも最高峰かも。泣きそうになった。

2023年9月29日 記

いいなと思ったら応援しよう!