ブルアカは令和の東方 - つまり巨大ファンコミュニティ

 この記事でいう令和の東方とは、この記事で言いたい内容を説明するための、恣意的で主観的な概念だ。偶発的に巨大ファンコミュニティが形成され、巨大ファンダムが原作と相互作用しながら自己拡大する、あの現象のことを指す。ブルアカや東方に限らない現象の代表例として東方を持ち出している。ブルアカは最新である。

 発端はブルアカとも東方とも関係なく、下に貼る集英社オンラインの記事だ。原神が云々の部分が揶揄されていたのを目にして何やかんやで読んだ。機会が無いとちゃんと読まないよね、細切れ記事。

 内容をざっくり要約。主題はヘブバンなど国産タイトルの苦境だ。シナリオを重視して5年掛けて開発、リリース当初は大ヒットしたかに見えたが、売上の減衰ペースが早い。日本の推し活文化に適合しているだけでは海外に活路を求めるのも難しい。原神は(国産タイトルと同じく)キャラクター重視型だが、(競争のための)ガチャ要素を取り除いたライト層重視の作りで(日本含め)世界的にヒットできた。国内メーカーは予算の都合(競争のための)ガチャ要素を入れがちであるから、先行きが不安である。

「ガチャ要素」をゲーム攻略・プレイヤー間競争にガチャの必要性が高いことを意味して使う部分は防御力が低いが、全体として述べている内容は納得がいく。ヘブバンの批判されるところを思えば原神を引き合いに出すのは正しい。

 ところで、上記事の説明だとブルーアーカイブの現状が説明できない。韓国NEXONの開発だがやっていることは沈みゆく国産タイトルと全く同じだ。ガチャは渋いしランキングを争うのにガチャが要る。一度は同様に死にかけた。どういうわけか持ち直してしまった。

 なぜブルアカは持ち直せたのか、をシナリオやキャラクターの魅力に求める試みは無駄である。シナリオやキャラクターが良い。では他の苦しいタイトルがそうでないのか、といって不毛な比較を始めたくはない。

 先の記事はブルアカについて知らないではないだろうが、記事で述べたい内容と逸れるから言及できなかったのだろう。言及したところで流行ったものが流行るという身も蓋もない話にしかならない。その割にハイコンテクストだ。

 この場で私が言及したところでやはり身も蓋もない話しかできない。それでも流行ったものがどうなって流行るのか、一度言葉にしてまとめておく価値はあると思う。

東方的であること

 筆者の考える東方っぽいものを挙げていこう。東方。アイマス。艦これ。ボイロ。FGO。原神。ウマ娘。ブルアカ。無論共通点は流行ったことである。コミケでよく見かけるという言い換えもできる。筆者の周囲まで来てないだけで他にもあるだろう。

 逆に東方的でないものとは。呪術廻戦。Apex。エルデンリング。ガルクラ。ポケモン。トラペジウム。

 流行り方にも文脈があり、東方っぽい流行り方というのがある。流行があるベクトルである種の臨界を起こしたときだけ東方に似て見える。

 東方的な存在の共通要素を筆者が挙げるなら以下のようになる。

  1.  それは巨大ファンコミュニティである。

  2.  それは原作と二次創作とを内包する。

  3.  それはシェアードワールド的である。

自己拡大するコミュニティ

 上で挙げた三要素はゆるやかに繋がっていて、その実巨大ファンコミュニティに備わる自己拡大する性質を別側面から繰り返し述べている。

 第一の要素は単純に人気であるということ。富める者はますます富み…の理屈で人気が拡大する。コミュニティは雑多でスパース、全体として無目的・無指向性。帰属意識がない。それはニコニコ動画やTwitterのような開空間に一時の話題として留め置かれ、既存クラスタに蔓延し、クラスタをコミュニティ内に吸収する。

 第二の要素はコンテンツ量が増幅されるということ。二次創作が活発に行われる。さながらトランジスタに通したみたいに、原作というコンテンツが数倍数十倍の二次創作コンテンツに増幅される。原作に費やす時間より二次創作に費やす時間が長いのが一般的だ。

 第三の要素は原作を特権化しないこと。原作は特権視されながら特別でない。東方的ファンダムでは一次コンテンツのみならず二次創作や三次創作の設定までもが共通認識かのように流通している。ミームや二次創作だけがしばしば行儀の悪い方法でコミュニティ外まで染み出して、コミュニティ辺縁部に原作を知らない層を生み出す。

 上記説明はどれもコミュニティの説明に終止していて、一次コンテンツの具体的な性質は全く無視してしまった。偶然そういう文化が定着できたというだけだと考えている。

シェアードワールド性

 私の相棒のピカチュウとあなたの相棒のピカチュウは違う。あなたのピカチュウが猫舌だったとしても、私のピカチュウはそうではないはずだ。

 私の知るカンナとあなたの知るカンナは部分的に同一人物だ。あなたのカンナが実は猫舌だったのなら、私のカンナもそうなのかもしれない。

 違いは、言及対象に素朴に感じ取れる唯一性だ。各々見ている世界が違うとしても、同一人物にかかる言及は横断的に共有される。食い違う設定は意識される瞬間まで排除されない。

 そうして各々把握する似ている世界を家族的類似性のもと括ってゆくと、コミュニティ全体でぼんやりと共有されるシェアードワールドが浮かび上がる。原作の細部を熱心に追求するクラスタには世界の詳細まで見えていて、辺縁部で受動喫煙するだけのクラスタにはミリしらの世界しか見えていないのだが、それらは一本の鎖の両端だ。

感想文化のnote

 感想を上等な形で共有する文化がある。note.comである。

 感想の対象がライブコンテンツである点で読書感想文とは大いに異なる。スコープが最新の更新部分に限定された話なのが肝要だ。noteで感想を読み漁るとき、最新部分は読み手にまだ定着していない、熱くて軟弱な状態だ。noteで他人の解釈に触れ、他人の影響を受けながら形を整えてゆく。その意味でnoteは他人の感想にとどまらない、延長された自分である。

 あのシーンでこの人物が何を考えていたのだろうか。明確に描かれなかった部分を自分なりに解釈して説明することは一種の二次創作ともみなせる。解釈を共有して繋いでいくことはシェアードワールド的だ。ブルアカコミュニティにnoteが根付いているのはすっげー良い文化だと思う。


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