ローカルTLは最悪である - タイムラインと帰属の表明
序文 - たとえばなし
あなたは活字が好きだとしよう。最近読んだ小説の繊細な表現に感動したあなたは、この感動をだれかと共有したくなった。どこで話せばいいだろう?
出会ったのは、ある出版社が運営する『活字大好き倶楽部』という(架空の)SNSだ。あなたはアカウントを作成し、ドキドキしながら「はじめまして」と挨拶する。幸い暖かく歓迎され、あなたは嬉々として大好きな小説について布教する。これから読んでみようという人もいれば、もう読んでいて、別の視点から感想を語ってくれる人もいる。
そのSNSでの体験は幸福なものだった。あなたは『活字大好き倶楽部』に入り浸り、日常的に会話に加わるようになった。他愛ない話をたくさんした。オフ会にも行った。あなたの後にも、あなたと同様に参加してくる人が増えた。以前されたように歓迎しているうちに、あなたも古株のひとりとなっていた。
数年が経って、あなたの関心は少しだけ変化していた。この頃は小説よりも漫画を読んでいる。特に最近読んだこの漫画は素晴らしかった。単行本一冊で完結していて読みやすく、しかし読み応えは抜群だ。繊細なタッチが切ないストーリーとよくマッチしている。それでいて躍動感あるコマ割りが主人公の心情を鋭く描いているのだ。この漫画はあなたの人生で触れた本の中でも最高の一冊だった。
だれかと共有せずにはいられない。あなたは早速『活字大好き倶楽部』にログインして、そして、ピタリと止まった。誰も漫画の話をしていない。小説、小説、小説の話ばかりだ。あなたは今になってエッセイや新書の話題もなかったことに気づく。『活字大好き倶楽部』は小説好きの集まりで、それ以外ではなかった。
あなたは怖くなってしまった。あなたの人生の最高の一冊が、あれだけ語り合った友人たちに受け入れてもらえないかもしれない。もしも反応がなかったら? 漫画には興味がないと言われたら? 結局、あなたはその漫画について話すことができなかった。
何が間違っているんだろう?
小説以外を好きになったこと? 違う。
『活字大好き倶楽部』のみんな? 違う。
漫画について話す勇気がないこと? 違う。
SNSの設計が間違っていた。『活字大好き倶楽部』は、あなたの、ほんの一部分しか表現できなかった。SNSの表現力が不足していた。
関心の多数 - Discord
序文で想定した「あなた」は、ただ小説だけが好きな人格ではない。小説も漫画も好きな人格であり、最近は漫画に軸足が移りつつある、そんな人物だ。
通常、人間には複数のものごとに関心があって、生きているうちに変わってゆくものだ。その一方で、コミュニティはしばしば特定の関心事を中心に成立する。『活字大好き倶楽部』は小説を中心としたコミュニティだった。このことは、人は唯ひとつのコミュニティだけに帰属できない、という単純な事実を突きつけてくる。
素朴に考えると、今あなたにn個の関心事があるなら、n個のコミュニティに所属できればよさそうだ。これをSNSの設計で保証するにはどうすればいいだろう?
ひとつの例がDiscordだ。Discordは関心毎にコミュニティを切り分けることに長けている。
Discordでは、「あなた」を意味するアカウントとコミュニティの単位であるサーバーとが明確に切り離されている。discordには無数のサーバーがあり、ひとつのアカウントで多数のサーバーに参加できる。サーバーへの参加という形で「あなた」を分解して表明しているともいえる。
Discordが素晴らしいのはサーバーを建てるのが容易なところだ。粒度は自在。1万人規模の『Web小説総合』から、仲の良い友達数人だけで集まって『スマブラ部屋』を作ることもできる。作業通話をしたいとなれば、既存のサーバーでやってもいいし、専用のサーバーを新設したっていい。同じ関心事のサーバーが複数あって、お互いに存在を知らないまま、いつの間にか文化の違いが生じているかもしれない。
関心単位でSNSが運営されるのとは全く話が違う。『活字大好き倶楽部』の他に『漫画大好き倶楽部』『川端康成大好き倶楽部』は存在するだろうか? あなたは受け入れてもらえるだろうか? SNSの運営は高コストだ。人間のコミュニティという粒度は、SNSというサービスが要求するサイズに対して桁外れに小さく、流動的だ。
移ろうクラスタ - Twitter
Discordは「あなた」をコミュニティの粒度で記述する。これは非常にデジタルな考え方だ。関心事の比重は一定ではない。Discordは関心事を記述するが、重心を記述しない。
「あなた」の軸足が小説から漫画に移ってゆくとき、あなたの親しい人も追いかけてくるかもしれない。あるいは漫画に興味のないひとはあなたから少し遠ざかり、漫画が好きなひとは近づいてくる。関心は区切られた部屋ではない。空間上の位置だ。
巨大な単一コミュニティに人間を放ち、ソーシャルな関係を引力として記述すると、嗜好の似通った集団が漠然と可視化される。これをクラスタという。
クラスタ内の各人は互いにゆるく結びついているから、だれかが移動すると、他の人が引きずられる。卑近な例でいえば「FF内の人が最近ブルーアーカイブの話をよくしていて気になる」といった現象だ。ミクロな視点では、集団は形を保ったまま移動している。一歩引いた視点では集団が変形しているように見える。
これがTwitterだ。Twitter上で形成されるクラスタは物理的実体がなく、あいまいで、より「文化」という概念に接近している。「あなた」の重心の変化は詳細に記述できるが、「あなた」はなにに帰属しているか、という情報はぼやける。Discordが描くコミュニティとはちょうど不確定性原理のように対照的だ。
ローカルTLは最悪である
MastodonやMisskeyといった分散SNSは、どこかでアカウントを作れば、互換性のある他のインスタンスともソーシャルな関係を形成できる。フェデレーションした巨大なコミュニティを想像するとTwitterの代替になりそうなものの、実際のところ、ローカルTLがあることでDiscord的な性格が強い。いいとこ取りになるんだろうか?
ローカルTLはあなたの帰属を断定する。しばしば関心毎にインスタンスが建ち並び、ローカルTLが関心に対応するコミュニティになる。その中のひとつにアカウントを作るというのは、あなたの関心の重心がずっとそこにあると表明することに他ならない。さもなくばあちこちのインスタンスにアカウントを作ることになる。
ローカルTLはクラスタを破断する。ローカルTLの話題はインスタンスで閉じていて、別インスタンスから会話に混ざるのが難しい。ローカルTLはクラスタより強い結合で、クラスタを維持するインセンティブがない。結局参加したくばあちこちのインスタンスにアカウントを作ることになる。
よってローカルTLは最悪である。