ヒーローになりたい子どもが大人になるまで。
昨年、地元の小学校で半年間、学力向上支援スタッフとして子どもたちと関わった。とにかくかわいらしい。特に低学年ともなれば、休み時間になるとすぐに「ごとうせんせい!ごとうせんせい!」と集まり、縄跳びやら鬼ごっこやらあちこちに引っ張りだこ。時には担任の先生と一緒にひたすら鬼をしたり、ひたすら二重跳びを数えて褒めたり。
離れて半年が経とうとする今でも、ほんの些細な瞬間すら幸せな時間だったなぁ、と思い出す。
成長と自己表現
そんな日々を振り返りながらふと感じたことは、人は、いつから自分の思いを表現することに ”恥じらい” を感じるようになるのだろう。
「せんせい、見て!二重跳びできるの!」
「見て見て、コマできるの!すごいでしょ!」
子どもたちは自慢すること、認めてもらうことに躊躇がないと言うか、褒められること、認めてもらうことへの喜びを素直に爆発させる。でも高学年になるにつれて、大人になるにつれて、『認めて!』という主張をしなくなる。
そこには ”恥じらい” や ”他者からの視線” が存在し、それらが邪魔をしているように感じられた。日本人は(もちろん全員ではないが)、協調性を大切にしすぎるあまり、自分を表現すること、”出る杭” になることを嫌う。『周りと一緒』や『お隣さんと仲良く』も大事である。でももっと自分を表現しても良いと思う。
もちろん、世の中には自分を主張できる子とできない子が居るし、”できないことが悪いこと” ではない。でも少なくとも、自分を主張、表現をしないことは正解ではないだろう。
”目立つ” ことは悪いこと?
自分の日常に目を向ければ、周りの大学生にも同じことが言えるのかもしれない。さまざまな活動をやっているなかでも、度々感じてきた。
自分の ”やりたい!” という想いを発信したり、表現したり、さらに挑戦したりすることは、たしかに目立つ。いい意味で目立つことが多いが、落単(したことはないが)すれば、「いろいろ企画やってるあいつ、落単したんでしょ」となるように、悪い意味で目立つこともあるだろう。
だけど、いい意味での目立ちは、別に躊躇しなくてもいいんじゃないか、と思う。「ヒーローになりたい!」と言っている子どもが、『誰かのヒーローに』と考えて医者、警察官、消防士などを仕事にしたい!と考えること、 ”ヒーロー” という表現をしなくなるのはいいと思う。
でも「なんで消防士になりたいの?」と聞かれたときに、「かっこいいやん、ヒーローみたいで。」と言えるのか、後から取ってつけたような理由をくっつけて、他者に綺麗に伝えるのか。
自分は前者のように表現できる人でありたいし、子どもにもそんなふうに育ってほしいと思う。
さまざまな場面で、出る杭になることはあるし、他者から見れば ”ヒーロー” と同じくらい大逸れた、大風呂敷を広げているようように見られることもあるだろう。
だけど、少なくとも、自分は自分の想いを大切にしたいし、認めてあげられるような人でありたい。
そんなことを思い返した平日でした。