等身大ではなく、等“心”大
結構前に触れた表現。
『ありのままに~』と言われたとき、ほとんどの人は等身大であろうとする気がする。
でもそっちじゃなく、等“心”大であれ!というお話し。
違いはどこにある。
『ありのまま』は、『偽りなく、実際に在るとおりのさま』という意味であるが、ここにある “偽り” がキーワードであるように感じる。
そもそも人は、少なからず、他者からの視線を気にしながら生きている。その度合いに差はあれど、『気にするな』と言うことのほうが無理だろう。だが時には、他者からどう見られるかを度外視して、自分の思うがままに駆け出す瞬間も必要であるように感じる。がむしゃらとか、無我夢中のとき。
等身大である人は、『ありのままで』と言われたときにも他者の目を気にして、自分の想いの6割から8割くらいでセーブしてしまっているような気がする。
一方で、等“心”大の人は、自分の想いを他者がどのように見るか、どのように評価するのかを全く気にせず、自身の想いのためだけに走れる。他者にとっては馬鹿げているように思えたり、恥じらいを感じるような瞬間があっても、今その瞬間を自分のためだけにとことん頑張れる人だと思う。
つまり、等“心”大とは、自分の想い=心をセーブしたり殺したりすることなく、自分の心が行きたい方へ、求める方へ素直に走るということ。このセーブこそが『ありのまま』ではない、“偽り” だと思う。
簡単で難しい。
これがまた簡単なようで難しい。
他者からの視線を気にせずに生活できる人はおそらく居ない。
自分の行動のすべてが “がむしゃら” とか “無我夢中” なわけでもないから、すべての行動に等“心”大で居られるわけでもない。
でも、他者の何かしらに惹かれる瞬間は、等“心”大の方だと思う。『想い』というワードを大切にしている自分だからこそ、他者との関わりにおいて、想い=心を大切にして、等“心”大であることは必要不可欠だろう。
自分の全てに対して等心大であることは無理だし、それは単なる自分勝手だろう。だけど自分の『想い』を表現したり、カタチにするときには等“心”大でありたい。表現する相手が異なっても、伝える想いは変わらない。
人の心を動かすのは『想い』であることは間違いない。だから今よりももっと、等“心”大であろうと、意識していきたい。
(決して簡単ではないのだけれども。)