参加者か、創り手か。
最近直面した課題。何をやるにしても必ず誰かしらとの協働や、サポートが必要であったりする場面は多々ある。
しかし、核となる(ことを望む者)同士、協働者同士の間でも、その物事に対する熱量の差は生まれる。今回は、それを考える回。
参加者と創り手とは
まず『創り手』から。
創り手とは、
“一人でやることになったとしても、絶対にやりきる。最後まで自分事として手放さない”
そのくらいの覚悟がある人のことだと思う。どんなに大きな困難や壁にあたったとしても、そこで諦めるのではなく、“どんな手段を使ってでもカタチにする” と言えるか、が重要だろう。
じゃあ『参加者』は何かと言われれば、創り手ほどの熱意はないが、必要に応じて支援したり
“できることがあればお助けするよ”
というスタンスの人、全般を表現していると考える(※あくまでも個人的な表現の意味合いとしてです)。
創り手として…
そういう意味では、やりたいことの話に関して、本気でやりあったり、ぶつかり合ったりできるほどの熱量がなければ、おそらく、それはどちらか、もしくは両者が『参加者』なのだと思う。
その点では、今代表としてやっている活動における自身のスタンスは、どちらも『創り手』であると確信している。
だがその一方で、熱量の『差』を強く感じる瞬間がないわけではない。
熱量が大きい人にとっては小さい人のスタンスに不満を持つ瞬間もあるだろうし、(比べたときに)熱量が小さい人にとっては、大きい人の頑張り具合がストレスであったり、申し訳無さになったりする瞬間もあるだろう。
チームのメンバーそれぞれがどのような目的で、どれくらいの熱量で、どのようなスタンスで関わりたいと考えているのかを明確にしておくことは必要不可欠な過程なのかもしれない。
今を見つめて
今やっているCatalystの活動は、正直に話せば、その過程を若干ないがしろにした感が否めず、メンバー同士で衝突したりもした。熱量の差、関わり方のスタンスの違いで決裂した点もある。
でも、“何をやるか” よりも “誰とやるか” を重視したい自分にとっては、ないがしろにしてはいけないステップだったと改めて実感している。
何をやるにしても、自分だけで完結させられることはまずありえない。
だからこそ、互いの価値観や想いの共有を怠らず、互いが理解し合った上で活動するべきで、その共有状況を更新し続ける必要がある。
簡単ではないけれど、それをやっていかないと。
これが最近の反省のお話し。
(Catalystの企画、早くリリースしたいなぁ…)