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ついてない日
「ついてない」
貴之はつぶやいた。この言葉を使えるようになったのって最近だよなぁと考えた。「ついてない」といいたくなるのがどういう状況かわかったのが最近なのだろう。
たとえば、出がけに自転車のパンクに気づくとか。バスにはまにあったけれど、傘は玄関に置いたままで来てしまったとか。
行きはよかった。バスに乗っていれば駅前に着く。高校受験のために通う塾は駅に近い一角にあり、遅刻もしなくてすんだ。
帰りも悪くなかった。塾からバス乗り場まで、何事も起こらなかった。
ところが、貴之が着いたのを合図にしたかのように、ザーッと雨が降りだしたのだ。
駅前のバス乗り場にはカマボコ型の屋根がある。だから、貴之は濡れていない。けれど、この天気が続くなら、バスを降りてから家まで走るあいだにずぶ濡れになるだろう。
塾に戻れば誰かが傘を貸してくれるかもしれないが、こんな土砂降りでは、屋根の下から出られそうにない。
ふたりの若者が乗り場に駆けこんできた。
「ガンちゃんってば。朝、降ってなくても傘くらい持って出かけるのが常識だよ」
「それ、自分にいえよ、マル」
背後の彼らの会話に、貴之は心で応じた。
(そうだよね、梅雨なんだしね)
電車が着いたばかりらしい。駅の出口のあたりで、いくつもの傘が開いていく。
駅前ロータリーにできた迎えの車の列に向かい、助手席に飛びこむ人たちもいる。
次々と大通りに出ていく車の赤いテールランプを目で追いながら、貴之は思う。
(今日はついてない)
貴之の家にだって、車があるのに。二台もあるのに。「迎えにきて」と頼めない。父は出張中で、その車はガレージの中。母は自分の車で、骨折した伯母さんを見舞いに隣の県まで出かけている。自転車がパンクしても塾に送ってもらえなかったのはそのためだ。『そろそろ帰るね』というメールは塾を出る直前に届いたが、早くても2時間、こんな雨ならもっとかかるだろう。
「マル。おれら、どのバスに乗ればいいの?」
「市民病院経由のやつ。なんで? ガンちゃん、ここ、地元だろ」
「路線バスなんて、何年も乗ってねーもん。学校も、車で行くほうが早いし。なのに、こんな日に姉貴に車貸す羽目になって……」
すぐ後ろで続いているから、雨音が激しくても、ふたりの会話は全部耳に入ってしまう。どうやらガンちゃんは大学生で、ふだんは車で通っているらしい。マルも大学生かもしれないが、同じ学校ではないようだ。
「しかたないよ、事情が事情だし」
(どんな事情なんですか?)
貴之は心で問いかける。もちろん答えはない。ただ、ガンちゃんが「そうなんだけどさー、あー、ついてねー」と、ぼやいたから、こっそり、かすかに、うなずいた。
バス乗り場の屋根の下には、いつのまにか新たに人が増えていた。それぞれが、濡れた傘を巻いたりたたんだりしている。
こんな日に傘なしで出かけたのは自分とガンちゃんとマルだけなのかもしれない、と貴之は思った。
まもなく、一台のバスが来た。国道経由で隣の市まで行くらしい。何人かの客を乗せると、バスはゆるゆる走りだした。
乗り場の人影がまばらになった。それを待っていたかのようにマルがいった。
「さっきの話の続きだけど、どうするの?」
「どうにかなるだろ」
「どうにかする、じゃなくて?」
「今は、おれが自分に『マジなの? どうすんの?』っていいたいし。だって、小1から言い続けてきたんだぞ。小学校の卒業文集にも中学校の寄せ書きにも、おれ、書いたもん。『小学校の先生になります!』って」
「高校のときもいってたっけ?」
「三者懇談で宣言してた、親にも担任にも」
またバスが来た。
貴之と、後ろのふたりが乗るバスだ。
ゆっくりと近づいて停まり、ドアが開くのを待つあいだに、ガンちゃんがいった。
「まさか今日になって、自分が小学校の先生になりたいと思ってないことに気づくなんてさ。おれ、ええと、1、2、3……15年も『なります』ってくりかえしてきたのに」
貴之が先にバスに乗りこみ、最後部のシートに座った。
ガンちゃんとマルは、そのふたつ前のシートに並んで座った。
ふたりの顔を確かめるだけの余裕はなかった。貴之には、彼らの後頭部しか見えない。
通路側に座った若者が車内前方にあるバス停の案内板を指さし、窓側の若者が小刻みにうなずいている。
(窓側にいるのが、きっとガンちゃんだ)
貴之は、前の空席の背もたれにひじをついた。それ以上乗りだすことはできなかったが、耳をそばだてた。
(どうするんですか?)
そう問いかけてみたい。今日まで15年間もひとつの夢を追っていた若者に。
幼いころから、先生や親戚や近所のおばさんに「将来は何になるの?」と聞かれてきた。
「貴之は戦隊ヒーローになりたがってたよ」と母にいわれたことがあるし、「消防士」と答えたことも「博士」と答えたこともある。
小学校を卒業するときは「社会に役立つ立派な大人になります!」と誓った。なのに15歳の今、貴之には追う夢がなかった。
ガンちゃんはいつ聞かれても「小学校の先生!」と答え続けてきたのだろう。それなのに、今、進路変更を考えているのだ。
いつのまにか、バスが動きだしていた。しずくでいっぱいの窓の向こうを、街の明かりがにじみながら流れていく。
ためらうようなマルの声が聞こえた。
「小学校の先生じゃないなら、何になるの?」
「先生」
「……は?」
マルの反応にガンちゃんが笑った。
「まったく別の道ってわけじゃないけどさ。おれ、ずーっと塾のバイトしてたから……だから、気づいた。『小学校の先生じゃない』って。おれが向きあいたいのは、もっと年上の子たち」
「ああ。高校生とか?」
「『大学受かったぁ』って笑顔を見るのが好きだし。『最近、学校でも勉強が楽しいよ』っていわれたら、おれが泣いたし」
「ちょっとわかるかも。小学生に対するのとは違う気持ちなんだろうね」
マルの頭が、ゆったりとうなずいている。
「小学校の先生になるっていうおれの夢は、そのころの担任の影響なんだ。こんな先生になりたいって思った。けど、そうじゃないんだ。おれ、その先生のことが好きだっただけなんだ。『なりたい』とは違うんだ」
「そうか、気づけてよかったね」
マルの言葉にガンちゃんは答えなかった。少なくとも貴之の耳に、声は届かなかった。
バスが停まる。マルが立ち上がる。
「また連絡して」
ガンちゃんが「おう」と手を上げ、マルはバスを降りていった。
(ガンちゃんがひとりになった)
貴之の鼓動が、ぼんぼんと激しくなる。
ガンちゃんの話を、もっと聞きたかった。
バイト先の塾で、彼はきっと、いくども進路の相談を受けただろう。誰もに、親身に答えてきたに違いない。泣いたり笑ったりする生徒たちと過ごすうちに、彼自身の夢も変化していったのだ。
今夜、塾で貴之も、ほかの中学校の生徒たちが進路について話しているのを聞いた。
なりたい職業が決まれば、行くべき大学も絞れる。行くべき大学を絞るのは、高校のうちだ。家から近いとか電車通学してみたいとか制服がかわいいとかそこしか入れそうにないとか、いい加減な理由で高校を決めたら、あとで悔やむことになりかねないぞ。
貴之は話に加われず、黙りこんでいた。学校や塾で「おまえなら、ここに行ける」といわれて、受験校を決めようとしていたから。
逆らう理由はなかった。
(だけど、行きたい理由もないんだ)
戦隊ヒーロー志望じゃない。今は「消防士」になりたいと思っていない。「博士」って何だよ、何を研究するつもりだったんだよ。こんなぼくが、立派な大人になれるのか?
じっとしていたガンちゃんが『降ります』のボタンを押すのが見えた。
次のバス停で、ガンちゃんはこのバスを降りてしまう。彼と貴之の「ついてない日」が終わったら、もう会えないかもしれない。
どうするんですか?
声をかけたい。かけようか。困らせてしまうだろうか。勝手に人の話を聞くなと、怒らせてしまうのか……。
いつのまにか握りしめていたてのひらが、汗で湿っている。
バスが停まった。ドアが開いた。
ガンちゃんは一度も貴之のほうを見なかった。足早に降りていき、姿を消した。
彼が15年間も抱いてきた夢が、今日、形を変えはじめた。
(それなら、今日探しはじめてもまにあう? 「これだ」と思えるものが、ぼくにも見つかるのかな)
雨の音が聞こえる。
『どうするんですか?』
とうとう発することができなかったその問いが、貴之の中でこだましている。
(どうする? ぼくはどうする?)
問い続ける貴之を乗せて、また、バスが走りだす。
(愛知県教育振興会「子とともに ゆう&ゆう」2019年度6月号掲載)
単純に6月だから梅雨、雨の話……という感じなのですが、登場するバス停やバスは、わたしが住んでいる町の情景をモデルにしています。文系か理系か、そんな選択もかなり早いうちから考えておかなくてはいけなくて、たいへんだなぁと、娘たちを見ながら思っていました。