言葉にしてあらわすこと、花にあらわれること(花寿庵・万葉の花あそび)
先日、1月からはじまった"花生け"レッスンが終わった。ひと月に一度ずつ、季節の花を生ける講座だ。よくある「生け花」や「フラワーアレンジメント」とは全く違う、気づきの多いレッスンだった。
のぞみさんのファシリテーション
参加してみていちばん影響をうけたのが、講師・宮野のぞみさんのファシリテーション。
場づくりがとにかくここちよかった。空間だけでなく、そこで流れる時間。ファシリテーションの基本である「安心・安全」を作りだしている。のぞみさんが日々思っていること、感じていることなどを静かな語りで聴いたあとに、参加者が1か月にあったあれこれを話す。話の聴き方、あいづちのしかたを通じて、ああ受け取ってもらえているな、と話者が感じられるやりとりがとにかくすばらしかった。
季節の移り変わりの案内人
講座はひと月に一度。とりとめなく流れて行ってしまう日々に、句読点が打たれるような時間だった。
1月は、これから来る春に向かう植物のようすからはじまり、太陽のチカラがいちばん弱くなる冬至にむけて整理する、まとめていく12月まで、太陽や自然の循環を感じられる話が、その季節ごとにあって、日ごろ感じる変化を改めて感じられた。常緑樹の緑は一年中同じではなくて、春には春の、冬には冬の緑の濃さがあること。冬を越すシャガの葉が地面に這いつくばるように太陽の光を集めていること。
花器は大地。生ける花とのバランスが大切。
夏は水をはった皿に、ガラス器に。実りの秋は「まとめる」ブーケに。
季節ごとに生け方のテーマがあって、毎回新鮮だった。
花をいけるということ
生け方には何も決まりはなくて、花材を好きなように生ける。そこに心象があらわれるのがおもしろい。
迷いがあるとなかなかまとまらず。自分の中で軸が通っているときには、あっという間に形が決まる。なんとも不思議。
気が乗らないときもある。そんなときには、なかなかこれといった形が見えない。ただ、そこをつき抜けたときにできあがったものは、殻を破ってそれまでの自分とは違う、何かふっきれたものが宿っていたように思う。
それは自分だけでなく、一緒に参加したかたたちも同じだった。のぞみさんの言う「花鏡(はなかがみ)」。自分でも見えていないものが、行けた花にはっきりと浮かび上がっているのがおもしろい。
参加者の変化
心の中を言葉で開示することで、いろんな気づきがある。現在の自分。過去の自分、この先の自分。もやっとしていたものが言葉に乗せることではっきりしてくるというか。
最初はとりとめもなく話が続いていたのが、だんだんとはっきりと形がむすばれていく。話しているうちに「ああ、自分はこうしたかったんだ」と、ほんとうの気持ちが見えてくる。年の後半は短い言葉で言い表せるようになっていく。それは日々の生活にもあらわれて、家族や職場でも変化していったようだ。
抑え込んでいたものを表すことで気持ちが楽になるのか、レッスン前とあとで、顔つきがやわらかく変わっていったのがすごいなと思った。
自分の変化
ふりかえってみると、理論立ててシンプルでかっこよく・・自分を作って見せようとしていたみたいだ。その作為的なところがバレバレで、逆にかっこ悪い。後半はそれがなくなってきて、混沌さが出てきたように思う。バランスの崩れというか。自分の雑なところが出てきたというか。
他の参加者によると、「かわいい」ところが出てきたらしい。おもしろいなぁ。本人はまるで自覚していないんだけれど。
何にうつしてもいい。観察すること。続けること。
花生けのレッスンだったはずなのに、一年間でまるで違う境地に運ばれてきた。とてもゆたかで、大切な時間だった。
のぞみさん、ありがとうございました。
年間を通じたレッスンは、2023年も青梅と秩父で開催を予定しています。空席があれば一日だけのスポット参加も可能です。
花生けのレッスンは、青梅市の吉川英治記念館でときおり週末に開催しています。