カルト宗教からの自衛方法
はじめに
カルト宗教の信者達は、その実態を隠します。
その時代に応じた形をとり、さまざまな側面からアプローチをしてきます。
時に、その行動は、一線をこえ犯罪となります。
そうなると、家族、親、友人、会社、さまざまな方にも悪影響を及ぼします。
ですが、彼ら自身にその意識はなく、むしろ、本来あるべき姿と思い込んでいます。
つまり、洗脳(マインド・コントロール)されている状態で、これを2世3世へと引き継がれているのが現状です。
現代ではかなり巧妙なものとなり、宗教、思想家、哲学者、これらとの明確な境目がわかりづらく、グラデーションの中にポジションをとっています。
仮に脱会したとしても、様々な後遺症に悩まされます。
空虚感、無力感、情緒不安定、罪悪感、後悔、自信喪失、孤独感など、人によって数年~数十年も苦悩が続くと言われています。
こんな状況下で、どのように区別し注意を払えばよいのでしょうか?
立正大学心理学部対人・社会心理学科教授の西田公昭さんの記事をもとに、理解を深めようと思います。
【参照記事】https://newspicks.com/news/7508124/body?invoker=np_urlshare_uid7169309&utm_source=newspicks&utm_medium=urlshare&utm_campaign=np_urlshare
宗教とカルトの違い
宗教とカルトの違い、それはその目的の違いにあります。
宗教は信者に救いや安心感を提供することが目的、カルトは信者の自由を奪い、心を縛り、依存させて支配することが目的です。
更に、宗教法人として登録しているため、税制上の優遇をうけています。
つまり、宗教は意図的に信者を縛りませんが、カルトは意図的に信者を縛り人権侵害をし、時には犯罪に手をのばす、そんな団体です。
なぜカルトにはまるのか?
カルトは、こんなにもあからさまな団体なのに、どうしてはまる人がいるのでしょうか?
その要因は、集団心理の活用の仕方や方向性にあるようです。
まずは一連の流れから項目別に理解を深めます。
①どうゆう状況の人が入りやすいのか
②どうゆう勧誘をされるのか
③どうゆう洗脳をされるのか
④どうゆう対処が必要なのか
①どうゆう状況の人が入りやすいのか
分かりやすのは、不安や悩みを抱えた状況だと、その勧誘にのりやすいと言えます。
当然、個人の性格や価値観にもよりますが、そもそも人間の意思決定や行動は、他者や集団に影響されやすいものだということを自己認識しておかなければなりません。
相手はその心理を逆手にとり、自分達の主張を信じてもらいやすい状況を意図的につくり、感情や思考や行動を誘導し、信念の変容を促してきます。
そのように誘導されると、自分が支配されていることに気づきにくく、自分の意思決定だと思い込んでしまうわけです。
自らのおこした行動や発信は反対意見がでた時に、一度言い出した手前、撤回しにくいという心理も働きます。
そうなると、反対者に対して怒りをあらわにし、自暴自棄を繰り返し、支離滅裂となります。
ですが一方で、この論理の根底にあるものは、脳科学による人の特性であることは事実ですので、良い方向への働きかけであれば人のためになるテクニックではあります。
大切なことは、他人に操作される可能性があること、操作されている自分を想像することです。
つまり、常に俯瞰して自分と向き合う時間をつくること、常に周りとこういったことを共有しておくことです。
そして、正解を求めず、不正解を選択しない、この辺りを意識してほしいのです。
②どうゆう勧誘をされるのか
西田さんは「状況の力を利用する騙しのテクニック」として、下記に5つあげています。
・不意打ちによるパニックを利用
・安心させてから不安を煽る
・雰囲気にのまれる状況をつくる
・受け入れやすい条件で誘い込む
・外からの情報を遮断する
私はこれらを見たとき、真実と嘘は表裏一体だなと思いました。
今回はカルトをテーマにしているので、これらのテクニックは一見悪い事のように見えますが、逆に大事なテクニックにもなりうると思います。
例えば、相手がカルトにのめりこんでいるなら、正しい意見は相手からすれば不意打ちになります。
例えば、相手がカルトにのめりこんでいるなら、一旦受け入れてあげることで安心させ、正しい事を言ってあげることで不安を煽る必要はあります。
例えば、相手がカルトにのめりこんでいるなら、正しい意見を持つ集まりに誘ってあげます。
例えば、相手がカルトにのめりこんでいるなら、嘘でも条件提示して元に戻してあげます。
例えば、相手がカルトにのめりこんでいるなら、そんな情報は強制的にでも遮断するべきです。
つまり、相手の手法を逆手にとり、その働きかけを正の方向にむけるという意味です。
③どうゆう洗脳をされるのか
「私はまともだから大丈夫」
これ、結構危険だと思います。
何か変だったら辞めればいいと言う人もいると思いますが、一度入ってしまうと、気がつかないうちに洗脳されてしまうようです。
相手は長年の試行錯誤やトライ&エラーを繰り返してきた洗脳のプロ集団なのです。
その入り口やアプローチはさまざまで、ヨガ教室や講演会などのように仮面をつけていたり、疑心暗鬼な人の深く話をきこうとする特徴を逆手にとったり、最終的な判断は任せるといいながら強迫を匂わせたりと。
確かに人間には先天的な気質があり、幼少期に形成された人格は変容しにくいので、本来の自分が完全に喪失はされません。
てすが、新たな人格の再構築は専門家からしてもかなり困難な課題とされています。
洗脳プロ集団は人間の脳の構造を熟知しており、その手法はかなり巧妙のようです。
例えば、彼らはこのような手法をとります。
まず、通常の人間関係を遮断するために数日間の合宿を行うことが多々あるようです。
そして、その合宿で下記の働きかけをします。
・反復学習による思想のコントロール
・心身疲労による行動のコントロール
・賞罰による感情のコントロール
(思想のコントロール)
思考づけ、情報解釈、自動的反応
(行動のコントロール)
拘束と服従、身体疲労、賞と罰
(感情のコントロール)
外敵回避、集団アイデンティティー、課題の切迫感、集団離脱の恐怖感
重ね重ね言いますが、手法自体は善悪表裏一体で、最終的な目的がかなりズレています。
④どうゆう対処が必要なのか
私達もこれらの手法を逆手にとって、大切な人を守らなければなりません。
専門家を頼り、積極的に自衛していく必要があると思います。
西田さんが掲げる「カルトの支配から守る10の方法」があります。
①常に誠実でなくてもよい
②相手の誘いを断ってもいい
③答えをすぐに出さなくていい
④知らないことを恥じなくていい
⑤難しい問題には正解はないと心得る
⑥すぐに親しくなろうとする相手に注意する
⑦おかしいと感じたら逃げ出す
⑧他人に依存せず自分で考える
⑨従うことに慣れてはいけない
⑩出来る限り情報を集める
確かに、この通りの対応ができればいいのですが、問題は実際にできるかという所にあります。
例えば、私が経験した例をあげると、そもそも親密な関係にあった会社の先輩に勉強会と誘われていった場所がそういった所でした。
教壇に教祖がたち、大勢の信者達が正座で話を聞いていました。
その後もグループに別れ、話し合いがあったり、そもそも講演会費として、そこそことられました。
特に何か被害があったわけではないですが、これまでにいろいろ紹介いただいた人達は、すべて信者の方でした。
勉強会という嘘ではないワード、講演会は有料であること、少しずつ宗教であることや周りとの関係性を匂わせたりと。
そう考えると、上記の対処法は今日知ったことで明日から使うことはできるとは思います。
ですが、当時の初対面の時のことを考えると、想定するはずもない社内であり、根本的な対処法は別のところにあると思われます。
最後に
今回こういった事をあえて取り上げたのには、それなりの理由があります。
多分、多くの人はこう考えます。
そもそも宗教というワード、或いはそうゆう匂いがしたら関わらないようにする、なかには、宗教=カルトでしょ、そんなの人もいるかと思います。
私もまたその一人で、宗教に対する拒否反応は正直ありますし、ましてや、入信なんて怖さしかありません。
でも、実際に全うな宗教があるのも事実で、それに救われている人がいるのも事実です。
世の中には、こういった言葉に対するアレルギー反応があり、それは宗教に限ったことではなく、政治やジェンダー、風俗、在日、精神病など、さまざまなことにも言えるのではないかと感じています。
いま宗教やカルトが話題になっているのは、安倍元総理の件が引き金だと思います。
これにより、過去のオウム心理教の話が改めて取り上げられ、統一教会への風当たりが強くなりました。
統一教会の根本になるキリスト教への警戒心も高まり、巷では、小さな宗教の勧誘にさえシビアになってきています。
更には、そんな風に見えるという雰囲気で、全く関係のない団体までも宗教ではないかと、そんな空気へと変わってきている状況です。
この辺りから、宗教とカルトは同類に位置し、最近ようやく、その違いが発信されてきた、そんな曖昧な位置感のなか、政治家との関わりが指摘され、しばらくは煮え切らない期間になると思います。
その勢いはとまることはなく、哲学者や思想家、自己啓発にも影響を及ばし、人権活動でさえ疑いをかけるに至ります。
もはや、科学的根拠のないものは信用できないとされます。
ですが一方で、宗教と政治が日本をつくりあげてきたという事実には無関心なのです。
某テレビ局は元々宗教法人による創設で、日本の福祉制度の根底はキリスト教、仏教は全く別物だし、
脳科学は心情を優先した物理的なものだけど、どこかエンタメ感じが拭えなかったりします。
つまり、言葉のアレルギーの実態は、否定に片寄った偏見かつ肯定の模索は一切しないという他責の概念ではないでしょうか?
物事の判断において、情報の少なさは、見る側面の少なさ、観点の狭さであり、それはアプローチの少なさに繋がり、偏見になるんだと思います。
私達は、いつも問題に対する思慮は深めるけど、その解決には非常に浅はかなんです。
本来は正しいかもしれない少数派の個人の判断より、よく分からないけど安心を確保したく多数派の賛同に乗りたいんです。
根本的な解決方法はひとつです。
本当にそれは正しいのか?
そう疑うこと、自問自答することが最初の一歩だと思います。
この一歩が踏み出せたら、他を知るきっかけになり、情報収集や人脈づくりに努めだして、いろいろな観点があることを心の底から理解できるようになります。
そうなって初めて西田さんが掲げる「カルトの支配から守る10の方法」に共感がでてくるのではないでしょうか?
自衛としては、海千山千にならず無知の知でいれるように日々努めることです。
一方で、宗教信者ですと胸はった勧誘の仕方が一番フェアではないかと思います。
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