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人権活動のありかた
昨今、さまざまな人権活動が全国各地で行われています。
労働問題、LGBT差別、原発稼働問題、冤罪事件、いじめ問題など、有志の集まりが人権を主張し発信をしています。
理不尽や不条理に対して公平公正を問うものであり、無論、私も推称しています。
ですが一方で、活動者側のリテラシーの低さや偏見も否めないものを感じています。
世の中は常にバランスが大切で、良き方向に傾けば安心安全な世の中にはなるというものではありません。
むしろ、不幸な人間が誰もいない世の中ほど怖いものはありません。
いつの時代も賛成派と反対派の摩擦により成長が図れるものです。
重要なことは議論ができるかどうか、受容しあえるかどうかです。
それはつまり、反対派の考えや思いも汲み取ることができるかどうかです。
例えば、私が取り組んでいる「子どものいじめ問題」についてです。
被害者側に寄り添うことは当然優先順位が一番であるべきです。
ですが、被害者側にも多種多様な人がいること、同様に加害者側にも多種多様な人がいます。
被害者側には、豪快に対処して欲しい人もいれば、ひっそりと対処して欲しい人、なにもせずにそっと転校させて欲しい人がいます。
加害者側にも、謝罪をしたいがどうしたらいいか分からない人、謝罪したいけど今更ひけない人、そんな事は全く考えてもない人がいます。
活動者側は、まず、全体像として、この構図を描かなければなりません。
この部分は、多くの人が理解している、認識があると答えますが、それは”~のつもり”だと感じます。
特に加害者側に対しては目にあまる言動を多々見受けます。
つまり、被害者を守ることで世の中は是正され、加害者を排除することが最初の一手、或いは被害者側の立場にいるため加害者側を擁護できない、それはいわゆるイデオロギーの手前のところに位置しているようにも見えます。
本当は正しいと思っていることを主張できない、そんな空気の中にいるように感じます。
加害者側を擁護している人に対してサポートできますか?
それを被害者側の立場の中でできますか?
それをした人は裏切り者ですか?
加害者に重罰を与え、排除し、数で勝り、その先に平和な世の中があると?
これらは、隠蔽をより根深いものに導きませんか?
以下の設問はどうでしょうか。
加害者側が自殺したらどうしますか?
被害者のいじめが加速したらどうしますか?
加害者の更正に対する言及はしませんか?
活動員にそれらを指摘できますか?
活動の目的は、
「もう二度と同じことを起こさせない」
人権活動は、
「あらゆる問題に対する解決策の一つで第一歩目」
私の理由は、
「理不尽と不条理を見てみぬふりができない」
活動は本来報われるべきで、数が集まっても、通らなければ意味がありません。
被害者のためだけではなく加害者のためにもあるべきで、第三者のためにも必要なことです。
そんな意義のある活動に、
「頑張ったことに意味がある」、「いい経験だった」
私が絶対に口にしたくない言葉です。
側面も手法も多種多様で、意見や考えが全く同じでなくていいのです。
共感できる部分で繋がり、共感できない部分を話し合い、何か一つの導線でつながればいい。
この部分の理解を深め、間違っていたのならば謝ればいいし、許してあげればいい。
何より、
人権を守ろうとする者が人権を侵してはいけない。
人権とは、
人間であるということに基づく普遍的権利。
人間の生存にとって欠くことのできない権利。
人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利。
私達が目指している平和な世の中は、おそらく、そんなに綺麗なものではなく、これまでしてきた努力に光があたることもなく、我々の活動など忘れさられる日々がくることです。
だからこそ、重要なのです。
なぜ、あなたは活動をはじめたのか、
なぜ、あなたは今もなお活動し続けているのか。
あなたを動かす原動力は、多岐分野において、他の人にはない力を必ず発揮することができます。