【デュルーズ編】現代思想入門(千葉雅也)を読んだ記憶を定着させようテキスト その2
デリダに続いて現代思想の大家であるデュルーズについて書かれていた。「彼の思想の解説」の説明とその場面毎に考えたことをまとめてみる(自分の記憶定着のために)。
・『アイデンティティは「異なるもの」という一次的な原理の周りを回る二次的に生成された原理である』
〔説明〕
簡単に言えば、絶対的な同一性(アイデンティティ=自分が自分であり続けること)は存在しなくて、自分らしさとか自分らしくあり続けることは周辺環境との「差異」があってこそだよねという感じだと思う。この一次的な原理を二次的な原理が周回している様子を千葉雅也は「仮固定」という言葉で言い表している。
〔所感〕
同一性は「原理」としては存在するということが分かりづらい。同一性が100%ある人間がいる確率は0ではないから一応は、「原理」として存在するということか?「差異」という言葉の意味はまだはっきりわかっていない。
・『あらゆる事物は相互的に関係しあっている。関係し合う事物の同一的な次元をのことををデュルーズはアクチュアル(現働的)と表現し、諸々の関係性の次元をヴァーチャル(潜在的)と呼んだ』
〔説明〕
人間が自転車に乗ることを例にとると、人間と自転車という独立した個々が現実に立ち現れている次元はアクチュアルでバランスをとったり、ハンドルを操作したり、バランスをとるためのあらゆる筋肉の複合的かつ複雑な働きあいなどの次元をヴァーチャルと呼んでいるのではないだろうか。
〔所感〕
むずい。目にみえる分かりやすい一見独立している事物のある同一的な次元がアクチュアルで、筋肉や感覚や神経やなんやらかんやらなどの本来存在する幾千も関係しあっている事物のある次元の諸々をヴァーチャルと呼んでいる。あれこっちの方が分かりやすいかも。
・『あらゆるものは仮固定状態』
〔説明〕
例えば、純粋な「健康」はないし、そのバランスが崩れた状態が病気だったりする。あらゆる物事は無数のシーソーが揺れ動いている状態でいる。このバランスが安定している(ように見える)状態を仮固定もしくは準安定と表現する。ピラミッドなどのどんなに強固な建築だってあらゆる物質は時間が経てば壊れるし、記憶だって忘れ去られていつかなくなる。つまり、あらゆる事物は状態に過ぎなくて、始まりや終わりなどの明らかな境界は存在しないということ。
〔所感〕
自語りみたいで恐縮だが、昔水面を見て、波紋は無くなったと言えるのかということについて考えていたことと重なった。人間である自分の目には無くなったように見えるが顕微鏡で見たら違うだろうし、いわゆる凪の状態だと無限に波紋が存在している状態とも言えるのではないかと言った感じで考えていた。0の状態と無限の状態の近似が数学の微積分に出てくるあの感じや裏表や終わり始まりが存在しないメビウスの輪みたいな感じを覚えた。また、あらゆるものが状態に過ぎないという一節はTohjiのphenomenoという曲にも表れている!you are one of the phenomeno みたいな曲内でリフレインする一節と同じだ!と感じた。総じてあらゆる事物は異なる状態に「なる」
途中である。宇宙には上も下もないように全てに始まりも終わりもない。って感じですかね
・『家族によるトラウマへの批判』
〔説明〕
家族というごく小さな共同体の中だけの影響関係だけで自身の同一性を決めつけることを批判している。自分の受けてきた影響関係はもっと無数で複雑だからという感じだと思います。
〔所感〕
1年前の自分に聞かせたいです
・『自由すぎると人は何をしていいかわからなくなる。それこそが不安の根源。』
・『チャレンジが準安定につながる』
〔所感〕
非常に面白い。静止じゃなくて多動することの理由や根拠が知りたい
・『無関係性の肯定。根本的には無責任であるということを理解することが重要』
・『一つの求心的な全体性から自由な関係にいる。その自由な関係が多いほどクリエイティブだと言える。』
〔説明〕
中心がある共同体に囚われ過ぎず、自由でいる。ただし、デュルーズは関わらないことを肯定しているのではなく関わり過ぎない姿勢が重要だと言っている。ノマド(遊牧民)化するということ。
〔所感〕
ノマドと聞くと、落合陽一が紹介してた現代美術家ナムジュンパイクの提唱した概念である「定住する遊牧民(stationally nomad)」が思い出される。技術の進歩によって(インターネットの発達)定住しつつも世界と繋がれたり、自由に影響関係が展開されていくと言った感じだったはず。
・『ノマド(遊牧民)は戦争機械になる』
〔説明〕
ノマドはノマドを取り込んで組織化しようとする国家的・領土的力に対して激烈な攻撃性を見せる。例えばチンギスハンとか。ただそういうのはミニ国家でしかなく、デュルーズのいう自由な関係はもっと流動的なイメージ。価値観の争いから浮離して互いに対する気遣いを持ち、だけれどもその気遣いが相手の迷惑にならないようにするということが重要。
〔所感〕
理想的な社会には倫理観と余裕がある人間が必要不可欠だということがわかった気がする。
・『管理社会批判』
〔説明〕
そう言った自由な流動体は新たなる管理社会を形成するといった批判もある。これ以降の非コミュニケーションや断接機のくだりはちょっと今の僕には理解できなかった。無念。
・『クリエイティブな関係性を広げながら、非コミュニケーションであることが必要』
・『一人の人間にどう関われば支配にならず愛になるのかというケースバイケースの判断が求められる。』
この本の中で現代思想は現代に生まれた色々なコンテンツに影響していると書いてあった。エヴァンゲリオン(家族の呪縛から逃がれようとする物語)とかAKIRAにもその風味を感じる。坂本龍一の後期の音楽とか(自身の著作でデリダに影響を受けたと記されている)。さっき書いたがTohjiのコンセプトも非常に現代思想と関係しているように感じる。旧来の社会秩序への反発や自由でクリエイティブでありたいみたいな感じはhiphopと親和性が高そうだし、世界や日本でもhiphopが流行っているのはそういう関係がありそう。
個人的には、現代思想が市民に求めるスタンス(かつての資本主義や共産主義も実は同じようなスタンスを市民に求めていたはず)が果たして実現するのかどうかはかなり難しそうに思える。
時代のテンションが上がっていた時の日本では(1980年代(バブル)と2000年代(ネット登場))はデュルーズが流行ったし、一方で下がった時(1990年代(バブル崩壊))はデリダが流行ったと書いてあったのが面白かった。
心身ともに余裕がないと人間は豊かな判断ができないのかなと考えると、少しの悲しさと諦めを覚えた。
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