世界は自分の心しだい。
募金なんかしてもべつに何も変わらないし、知らない人のことなんてどうでもいいやん。
例えば募金1つにしてもそんな風に世界を見ている人間だったぼくには、知らない人どころかそばにいる人1人さえ幸せにはできなかった。
大きいとか小さいとか、近いとか遠いの問題ではなくて、ぼくは家族がいなければここまで生きては来れなかったし、友達や先輩や大人の人たちがいなければ折れてしまっていたことばかりだ。
近所のスーパーでパートしてる「ポイントカードお持ちですか?」と言うときに両の人差し指と親指で長方形をつくる元気なおばちゃんがいなければ買い物もできないし
ライブハウスで音響照明さんだけじゃなく仕切りやステージやドリンクのスタッフさんがいないとゆっくりステージにも立てない。
そういうことが見えているかどうかが大切だった。
昨日は大先輩のユニットTANEBIのワンマンを見に行った。
「前も同じこと言ってたよね?」
『同じことをいつも同じテンションでやるのってすごい難しいんやで!?笑』
というやりとりがあったのだけど、普通にわははと笑って流すこともできるこの会話にもすごくうなずいてしまった。
人間には飽きがあるし同じことを繰り返してウケるかどうかの不安だってある。だから表現として考え準備してきた最高のものを同じ品質で用意するのはすごいことなのだ。
吉本新喜劇が毎回同じところで笑えるのはプロフェッショナルだからだ。
そのあと曲のアレンジや提供をさせてもらっている安西彩矢のライブにも行ってきた。
世界中を照らす大きな太陽ではなくて、どんよりした天気の日でもおかまいなしでそこにあってくれるひだまりのようなミュージシャンだななんて思った。
ぼくが「同じことやるなんてありえない」という視点しかなければそのすごささ分からなかったし、「ライブは隙のない作り込んだものじゃないと!」という考えしかなければあのひだまりには気がつかなかった。
誰かの行動や何かに触れたときに感じること、頭に浮かぶことは自分の心の写し鏡だと思う。
募金なんか興味ないと思えるのは、自分がそばにいる人に無関心である証拠だ。
支え合って生きていることを日常から意識できるかどうかという話で、はじめて募金をした時の照れたむずがゆさとか、心が少し温かくなる感じとかを知ることで自分が変わるのだ。
自分が変われば世界が変わる。見えなかったものが見えはじめる。
いま京都アニメーション爆破の事件でツイッターのタイムラインが荒れていて、人の善意に自分のフィルターのかかった正義で攻撃しているツイートもたくさんあってすこし気持ちが疲れてしまっている。
「京アニじゃなかったらいい」「人の命より作品が大事」そんなこと言っていない人にそう思うのは自分の心が世界をそういう風に見ているからなのだ。
できるだけフラットだったり、さまざまな視点から物事を判断したいし、どうせフィルターがかかるなら何からでも明るいものを見つけ出せるような自分でいたいなあと強く思う。