こんなにすごい人たちがいるのに僕がこれをやる意味はなんだろう?
周りよりギターが上手い、歌が上手い、ライブがいいなんて有頂天になっていられたのは自分が大したことない証拠だった。
「井の中の蛙大海を知らず されど空の青さを知る」
ということわざがあるように井の中の蛙だった僕も活動を続けていくうちに「あれ、この人僕よりすごくね?」と気づいていくのだった。
空の青さを知ったら今度は井戸から出てみようという気になる。
成長するほどに自分がちっぽけだと思い知るなんて皮肉な話だ。物事は深く知れるようになるほど底なしだと気づく。だから悔しくもなるけど面白さも途切れないのだろう。
狭い世界でケロケロと鳴く日々から脱出したのはいいものの、そうするとまたひとつ悩みが出てくる。
「こんなにすごい人たちがいるのに僕がこれをやる意味はなんだろう?」
例えば「ギターを弾く」を「点A」とする。「ギターのうまさ」はAの「深さ」だ。
つまり「ギターがうまい人がいるのにギターを弾く意味はなんだろう?」はAでしか物事を見ていないことになる。
だけど僕らには生きていく中でいろんな想いや経験や価値観がある。点BもCもDもEも無数に存在しているのだ。
Bは「ギターの知識」かもしれないし「格好いい弾き方」かもしれない。Cは「ストロークの粒立ち」かもしれないし「承認欲求を満たしたい」かもしれない。
人が何かをやるときは無数の点を結んだ「面」が生まれ、さらにそれぞれの深さもかけ合わさって立体となる。
立体の形は人の数だけあり、それを「個性」とか「魅力」と呼ぶのだと思う。
僕はスティービーワンダーの形にはなれないし、ミスチルの深さに及ばないものもたくさんある。でもスティービーにもない経験やミスチルとは違う動機を深く掘っている。
だから僕が歌うことにはちゃんと意味があって、僕を好きになってくれる人もいる。
あなたがそれをする意味はちゃんとあって、あなただからいいと言われることがどこかにある。
ひとつの点だけで全てを決めつけないこと。誰かが素敵な形でも自分がダメなわけではないこと。自分の形に集中し、探して育てていくこと。
それが大事なのだと思う。
多くのものに触れ、掘って掘っておもしろい形の僕になろうと決めた。