私たちは現実を見ていない というか編集している2
おはようございます。
照明器具メーカーでライティングデザインを生業にしおります
gotoと申します。
年間200件ほどデザインをこなしています。
前回は、視覚情報は脳内で編集されたものをヒトは認識しており、
現実そのものを認知できていない、というお話でした。
今回は、その現実はそもそも現実なのか?というお話です。
何言ってんだコイツ…とお思いでしょう。
そして照明と何の関係があるの?とも。
光とは何か?
なぜ光に色があるのか?
光は波なの?波だとしたら何の波?
と、疑問が次々と湧いてきます。
そしてその答えはヒトが認識しきれない微細な世界にあります。
分子、原子、陽子、中性子、電子…
いわゆる素粒子の世界です。
最初に気づいたのはお釈迦様
お釈迦様の説いた「縁起の法」がそれにあたります。
世界は絶えず変化し続けており、一瞬として留まることは無い。
つまり「確実に存在するモノ」という認識の方が間違っているのだ。
それが有るのは有るという状態にする何かしらがそうさせているのだ。
「何かしら」は数えきれないほどの要因から成り立っている。
それを「縁」とお釈迦さまは総称しました。
後世、上記の法則は唯識論として確立しました。
難解なので超ざっくり説明します。
参考にした本はこちら
↓
山を見ているから山がある。
山を見ていない時には、それは山ではなく存在が定まらない何かである。
じゃあ、目をそらせば会社の建物が消える!?
残念ながら、そういう訳ではありません。
「見る」という「縁」がきっかけとなって「山」が現れた。
「山」という言葉も「縁」の一つである。
どこからが山でどこからが山でないのか。
本来連続した存在であり、「山」で切り分けることはできない。
「山」という言葉があるから「山」となった、とも言える。
要するに、
視ていない時の山は絶対に存在するの?
存在しないかもじゃない?
存在していると思うけど。
という事です。
「存在する」と「存在しない」が同時にある世界。
それが世界の実相で、「見る」「触れる」という縁が生じて初めて
「存在する」が確定する。
いや、わかんね…が私の感想でしたが、それをうまく表現した
絵本があります。
↓
天才っているものだなぁ…と思いましたよ。
光があったのではなく光として利用するようになった?
「どうして動いて見えるのだろう?」
幼いころ、ブラウン管のTVモニターに顔を近づけた経験ありませんか?
(当方51歳)
しかし見えるものといったら、赤、青、緑の短い棒が集合したもの。
それらが細かく明滅しているだけ。
でも離れると動いている画となる。
不思議。
視覚が現実をより正確に知覚するのだとしたら
TVを見ても動画ではなく、3色の光のツブツブがたくさん踊っている様子を
見る事になるでしょう。
しかし私たちはそれを動画として認識し、かつ信用し、時には喜び
または悲しみ、現実の一部として没入します。
そして光の存在も確固たるもの、とは言い難いです。
光は電磁波の一種であり、よく聞くX線やγ線、赤外線、紫外線
電子レンジで用いられるマイクロ波とも連続した関係性の存在です。
なぜ特定の波長域のみを「光」として視覚的な知覚ができるのか?
例えば波長500nmの植物の葉の中で、実った果物が波長700nmとします。
「明るいか暗いかしか視認できないAさん」と
「光の波長域の差を色として認知できるBさん」がいたとします。
さて、どちらが早く果物を入手できるでしょうか?
言うまでもなくBさんですねウホ。
「赤」と「緑」の対比が生じるので、効率的に「果実の存在」を
捕捉できます。
認知機能は、自らのエネルギーを使って生きるためのリソースを獲得する(利得)ために存在します。
ではなぜ色を知覚できるようになったのでしょうか?
夜行性から昼行性の移行が「色」を生んだ
誕生したころの哺乳類の多くは夜行性でした。
夜間では色より暗いか明るいかの明暗の鋭敏さが重要です。
徐々に昼行性に移行していくと色を分別できる個体が生き残ります
(自然選択)。
超ざっくりに説明しますと、もともとあった赤グループの光受容体を
素材にして、緑の波長域を捉える光受容体を作り出した、ということです。
全ては生き残るため
緑を認識できるよう進化した
というより、明るい暗いのおおざっぱな知覚から「色」という新たな機能を
持った個体が生き残った。ということです。
その生き残った個体か繁殖していくので、長い時間をかけてそれが標準に
なっていきます(このような変化は100万年スパンという説もあります)。
今となっては食料の確保は命がけではないですし、外敵に捕食されることに
おびえて過ごすこともありません。
食事は娯楽でもあり、視覚は多くの娯楽に必要な機能です。
しかしヒトの脳や神経はそのような文明を認識しません。
原始時代の環境が全ての前提です。
私たちは「世界を視ている」のではありません。
「生き残る確率を高めるため」「世界を都合よく作り上げたのです」。
あげくに人口の光を作って、作ったはいいけど持て余しています。
種類が多すぎて、何を使えば良いか分からない…
になってしまいました。
だからこそ、私のような人間がゴハンを食べて行けるのですが…
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