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ドサクサ日記 7/1-7 2024

1日。
「ふるえる書庫」見学。如来寺福住職の大智さんは、将来の住職としてこの地に住み続けることを考えると、暗い気持ちになることもあったという。俺も田舎出身なのでよく分かる。都会の風景はいつも眩しい。そういう視点から少し離れて「自分の住む環境を嘆くのではなく、町を面白くしたい」と考えるようになってから、人生に張りが出るというか、面白みとか、豊かさとか、希望とか、そういうポジティブな要素が膨らんでいる、みたいなことを、実際に言葉で聞きもしたし、何より、彼と彼の家族の心身の振動や、ふるえる書庫の場としての心地よさから感じた。この書庫では3万冊くらいの本を自由に読むことができる。管理は有志たちが行っている。プライベートな空間がスマホやイヤホンなどで狭くなり続けているなか、共有地の重要性は増している。自分にしか分からなそうな悩みを他人に打ち明けるのは本当に大変で、そんなときは黙って佇んでいたいのだけれど、どこに行っても場所代を取られたり、あるいは不審者だと思われてしまうような潔癖性に囲まれている。もちろん、こういう共有地にあっては、私は無関係だと何もかもと断絶したような態度では参加できない。自分も、何らかのバリアを解く必要がある。入口が半開きなことはとても大事で、入るだけでなく離れることもできる。参加とは何か。

2日。
車検のため自家用車を整備工場に預けた。かれこれ10年くらい乗っているけれども、3万キロくらいしか走っていない。にも関わらず、駐車場のブロックにひっかけてバンパーが取れてしまったり、ガードレールでドアを抉ったり、修理代だけは人並み以上に支払ってきた。車検代も自動車税も高い。ガソリン代も大変なことになっている。温暖化を嘆きながら、化石燃料を燃焼させている罪悪感もある。

3日。
フジファブリック活動休止。イアン・カーティスを失ったNew Orderと同じようなやり方もあるなかで、彼らはフジファブリックであることを選んだ。それはとても大変な選択だったと思うし、ファンや志村君への愛とか責任とか、想像もつかないような思いの連続と集積だったのではないかと想像する。ひとまずはお疲れ様と伝えたい。山内君、加藤君、ダイちゃんがこれからも元気で音楽を続けていくのならば、きっとまたどこかで、彼らが作ってきた音楽を一緒に演奏する日がくるのではないかと思う。バンドをやっている身から想像するに、そうした日が安易と訪れるとは思えないけれど、「そういう日があるかもね」と思えることは希望そのものではないかと思う。ラジオを聞いていたら、「破顔」という曲が流れた。なんかものすごくグッときた。荒道をこんなにも朗らかに見せてくれてたのかと、泣けた。

4日。
新曲のプリプロ。CBSから107stにマイクをゴッソリと運ぶ。こういう作業もあと1年くらいかなと考えると感慨深い。俺が持っているマイクの多くは新設する藤枝のスタジオに置いて、誰でも使えるようにする。楽器を録音するダイナミックマイクはそこまで高価ではないが、ひとしきり揃えるのには手間がかかる。マイクを買ったお金は音楽ファンからの贈り物だから、みんなの場所に戻すだけのことだけど。

5日。
ファーストテイクの動画が公開された。途中、左耳のヘッドフォンが外れてしまって大汗をかいたが、間奏で立て直して、後半からグッと気持ちが乗っていくことが自分で観ても分かる。生々しい。その生々しさがこのチャンネルの素敵なところだと思う。現在の自分たちの身体で演奏すると「遥か彼方」はこんな感じになる。それが良いとか悪いとか、自由に語られてほしいと思うけれど、俺たちはどうあれこの身体と向き合う以外になくて、50代を目前にしてこういう演奏ができることを嬉しく思うし、誇らしくも思っている。フェスやワンマンで観ても、現在のアジカンのライブはこの演奏の延長線上のどこかにあると思う。ただ、ライブやフェスでは観客の歓声や身体の振動も加わるので、いろいろな感情が増幅される。こうした閉ざされた空間の緊迫感にも見どころがあるけれど、一回性の、もっと生々しい現場で、いろいろな人と豊かな時間を共有したいなと思う。ステージこそが、自分たちの生きる場所だと思う。あと、俺は天然で、まったく気がついていなかったけれど、いつの間にか、サビの歌詞を「縺れる足」を「解れる足」と歌い替えてしまっていた。発語的には圧倒的にこっちがしっくり来ていて、疑うこともなく、多分10年はこのバージョンで歌っていたと思う。今後もそうすると思う。

6日。
この週末は東京都知事選挙のことを考えずにはいられない。ジェームズ・C・スコットの言葉を偉そうに引けば、「自由民主主義では、財産と富が集中し、最も裕福な層が、その優位な地位を使って、メディア、文化、政治的影響力への特権的なアクセスを享受している」。彼らは現状の制度のなかで、特権的な地位を得ているわけで、ゆえに、選挙制度もまた、現状を固定する特徴があるのだと彼は言う。制度を使って、真面目に投票しているだけでは、世の中は変わらない。人々が粛々と、あるいは黙々と選挙に出かけて、投票で世の中を変えたという史実はほとんどないだろう。選挙結果だけを考えれば、ほとんど現状維持のような結果だったとしても、あなたや私が街に出たこと、出続けること、選挙以外のかたちで改善を求めることはとても大切なのだ。選挙制度以外の場所にしか、政治はないとも言える。

7日。
録音のために某所に行かねばならず、1日の大半が終わる前にこの日の日記をかいている。これまでの歴史に倣えば、現職が勝利するだろう。俺のような阿呆の予言が外れることを願いつつも、ここに書きたいのは、誰が勝っても全権委任ではないし、それぞれの候補者が真摯に訴えた都政や社会についての問題点は、話し合われ続けるべきだということ。選挙に敗れた候補者に投じられた票は無効票ではない。それは、それぞれの意思だろう。ただ、さて祭りは終わったと皆が「政治」の近くから離れてしまえば、権力というのは暴走や腐敗に向かってゆく。徒労感は増している。自分の現場だけを守って「あとは破滅でもなんでもご自由に…」という加速主義的なニヒリズムに負けそうにもなるが、なるべくマシな社会を未来の世代に手渡したい、そうじゃないと恥ずかしい、みたいな気持ちがどうしても消えない。