ドサクサ日記 12/16-22 2024
16日。
クラファンの成功に安堵しながら、安堵というのは毛穴から気を抜くような状態なので、疲れていた身体がその通りに「疲れた」という信号を発する。ソファで横になって感慨したのち、書き物をするなどしてからスタジオへ。最近買った中古のマイクの動作確認をしつつ、弾き語りの録音。来年に向けてやることがいっぱいある。「今年が終わる!」というより、「来年がもうそこまで!」という土俵際。
17日。
自分の小ささを思い知るようなハプニング。もっとこうしておけば良かったなと後から思っても仕方がないが、まさかと思うことでも、防げたタイミングと方法はあった。それについてクヨクヨするのも、今後のために必要だと思うけれど、必要以上に省みても現在が変わったりはしない。自分を責めて変わる未来があるのだとしたら、それをポジティブに希求しないと、結局自己愛の穴に落ちていってしまう。
18日。
東京公演初日。歌を上手に歌いたいという気持ちはずっとあるけれど、上手い下手の話をするならば、そもそも俺の歌に上手さを期待して聴きに来るのは的が外れていると、ふと思う。だからと言ってすべての努力を放棄して、俺は俺であればいいのだ!とは言えない。けれども、なんというか、仮想の自分を必要以上に高く見積もって、自分が自分であることに緊張するのは勿体無い。むしろ解放したい。
19日。
満身創痍でツアーは終了。ライブは2日目のほうが喉も身体も調子が良いことが多い。歌うことで疲れて固まるのではなく、歌う身体へと緩む不思議。「むしろ少しの休養明けのほうが後藤さんの身体は張ってますね」とトレーナーは言う。3ヶ月で30公演はなかなか大変だった。身体のメンテナンスもそうだけれど、風邪をひかないための摂生と節制。コロナ禍を経てなのか、それとも音楽業界全体の流れなのか、コンサート会場を押さえるのがとても難しくなった。土日の公演となれば1年先まで会場が埋まっているような状態。そういうなかでの体調不良による中止や延期は、経済的にもバンドの活動的にも痛手になる。というわけで、益々、働く手を止められない社会に加担してしまう。というか、コンサートはその最前線と言っていいと思う。コンサート自体が商用にパッケージされ過ぎているとも言える。
20日。
レストランのビュッフェ終盤の、ここで料理を追加するのか、それともしないのか、という判断について考える。営業時間の終盤に滑り込まなければならなかった食事客の前で、具だけになっているパスタや焼きそば。空になった料理の皿もある。ここで追加で調理する経済的な損失やフードロスを考えれば、作ってくれとは言いづらい。従業員も「もうすぐ閉店」的な空気を纏っていて、途方に暮れる。
21日。
付き合いで海豚のショーを観た。現代的な価値観のアップデートからすると、こうした動物ショーは廃止の流れにあると思う。昔は無邪気に観ていたけれど、広くないプールや水槽に閉じ込めておくのは動物本来の生活からは逸脱していて、鯛とか熱帯魚のそれとは幾分角度が違う。無批判に面白いと思えなくなってしまった。詰まらないことを言うなと思う人もあるかもしないが、俺が海豚だったら絶望する。
22日。
付き合いでひろめ市場という割と広めの市場に行き、鰹の塩タタキや鱓の唐揚げをノンアルコールで食すことになった。時期は確実に外れているが、藁焼の香ばしい匂いが口に広がって、とても美味しかった。空洞のような時間を消費する必要もあったので、日帰り温泉に入って、オーテピアという図書館で一心不乱に勉強をした。受験生のような学生に混ざってノートを取るオジサン。充実した時間だった。