わきまえていないのは #2

 森喜朗の失言問題、コロナ禍におけるケア労働の問題。これはグレーバーの『ブルシットジョブ』にも繋がる、「私たちの生きづらさ」の問題だと思う。

 端的に言えば、私たちは「止まることなく働きづづけること」を社会から要請されている。それはどんな状況であれ戦地へ向かう兵士と、それを送り出す人々を生産しつづける「産業軍事型社会」で、それがいろいろな人たちの生きづらさにつながっている。

 どうしてミュージシャンがこんなことを考えているのかと言えば、「多くの人が音楽やコンサートを楽しむ余裕が持てるかどうか」に関わる問題だからだ。「大切な人をケアする(家事や看護などにとどまらず)」時間が持てないほど仕事に追われ、それを低賃金で外部化して、資本主義と新自由主義のもとで市場に委ねて、僕らはどんどん苦しくなっている。「成長」の名の下に、ある種の豊かさから離れている。

 当然、音楽や表現といった文化に割かれる時間は減るし、そうしたものは、その苦しさを癒したうえで、また苦しさに立ち向かえと鼓舞するようなものに成り果ててしまう。エンターテインメントやクリエイティブな仕事もまた、「私たちの生きづらさ」に一役買っているところがあると俺は思う。

 食べきれないものを作り、有り余る衣服を作り、空き家が増えようがタワーマンションを建て、無限に右肩上がりの経済成長に向かって爆進している。ただ、この「成長」の裏で起こっているのは、富が一部の人たちに集まる制度の強化だ。

「成長」によって増えるのは富めるものたちの富で、僕たちの身の回りに増えたのは無数の廃棄物と環境危機。トリクルダウンとやらは感じられない。そして、多くの人たちが、生きるために食うために手を止められない。恐ろしいことだと思う。

 こういう社会は、ジェンダーを男性と女性のふたつを固定して、それぞれの「らしさ」を盲信してもらったほうが回しやすい。資本主義の悪辣な性質や新自由主義は、「男らしさ」のような考え方と相性がいい。その「男らしさ」と、その比喩や相似形の考え方が踏みつけ続けてるものは多い。夥しい。

 新自由主義は「公助より自助」という考え方だ。公の部分を減らして、市場の要請にしたがって勝ち負けを分け、自分でなんとかしろと僕らは常に脅されている。公を民や自己に解体するわけだから、公正や公平という考え方が後退してゆく流れは避けられないだろう。

 女性が置かれている社会的困難について考えることは、この社会を生きる人々の様々な生きづらさについて考えることと、根っこが同じだと思う。それは、フェア=公正について考える、ひとつの視座だ。

 女性に生まれただけで平均的な収入が低いのはフェアではない。男女を問わず金持ちの子どもだけが学習機会を得るのはフェアではない。政治家が権力を世襲するのはフェアではない。「公」があらゆる格差の是正を目指さなければ、あっという間に脱出不能な階級社会ができあがる。ジェンダーの問題はその底部で踏みつけられ続ける。

 ジェンダーにまつわる機会が均等になったとしても、その先には富めるものだけが重要な席に座って、ジェンダーフリーと格差社会が両立するような未来だってありえる。だから、フェア=公正について考えるのはとても大事だ。

 そして「公」というのは行政ではなくて、「私たち」のことだ。永遠の微調整に参加しなければならない。つまり政治に参加しなくてはいけない。それが民主主義だと俺は思う。

 そうるすことで、(今日的な)公権力は弱まる(取り戻すとも言える)。「公」をそれぞれが担うわけだから、権力の偏在を話し合うことになる。権力についての責任を負うことになる(本来はそうなんだろうけれど)。「Power to the people」。富についても同じだろう。

 フェミニズムやジェンダーの問題について学ぶことは、「私たちの生きづらさ」を考えるうえで、とても重要なことだと思う。そこで得られる視点は、様々な人の助けになるはずだという直感がある。

 自分ごととして(エゴかもしれない)、自分が作った音楽が思った通りに響くような環境(無批判に受け入れられて人気者になるみたいな意味じゃない)とも繋がっていると俺は考えている。

 こうした考え方が「ロックかどうか(他のどんなカテゴライズも同じ)」については、クソどうでもいい。

 間違いながら、謝罪しながら、歩む。また間違っていたら、引き返す。そして、謝罪して、不勉強を恥じ、進むべき道について考えながら、また歩む。同じように謝っては引き返して歩む人たちを励ましたい。分かち合いたい。仲間が増えることを喜びたい。

 追記(2/14)。

 この記事を書いた後、『99%のフェミニズム宣言』を読みました。俺がnoteに書き殴った雑文を、全方位に精密に記した本でした。

 訳者である惠愛由さんの言葉を「あとがき」から引用します。

 フェミニズムが目指すのは、けっして「女性」だけのユートピアではない。これだけ多くの分断線が用意され、ひとびとを分かとうとする力がはたらく世界において、わたしとあなたは、どれだけ理解しようとしあえるか、どれだけ想像することができるか、そしてどれだけ愛しあえるか。フェミニズムをつうじて、すくなくともわたしはそんなことを考えている。ただ、さまざまな人と手をとりあおうとするなかで、それでも「女性」というフレームを設定することが必要なのは、そうしなければ語られない言葉があるからだ。「女性」という属性のなかに、たしかに苦しみがあるからだ。その痛みを、無視することをやめるためだ。ひとりひとりの「わたし」たちが自分の経験について語りはじめ、わからない痛みに、しずかに耳を傾けるためだ。

シンジア・アルッザ,ティティ・バタチャーリャ,ナンシー・フレイザー 『99%のためのフェミニズム宣言』 

 『99%のフェミニズム宣言』は多くの人を含む連帯について、その意義と可能性について書かれたフェミニズムの本です。とても勉強になりました。時間のある方は是非。