さらば、暴堕亜武霊苦
10年間、稼働初日からゲーセンに通い続けたアーケードゲームがついに天寿を全うした。
もはやボーダーブレイクは人生の一部だ。
このゲームを作ってくれた人、一緒に遊んでくれた人にまずは感謝したい。
備忘録も兼ねて、このゲームと共に歩んだ俺の歩みを書き綴っていこうと思う。
ボーダーブレイクとの出会いは中学三年生の時だった。当時俺は馴染みの仲間と共に、片道4キロを自転車で爆走しながらゲームセンターに通っていた。
今思い返せば、そのゲーセンが距離的に1番近いわけではなかったのだが、4人のバカは何の疑問も持つことなくペダルを漕ぎに漕いでいた。
ボーダーブレイクで遊びたい!それしか脳になかったのだ。あまりにも愚か過ぎる。展開を無視して一生奇襲を続ける地雷と同レベルの知能だと思う。つまるところ距離という概念が脳にない。
高校生になると、距離は短い方が効率的という結論に至り、更には電車賃がかかってもクレサのあるゲームセンターに行った方がお得、という知恵までついた。
人間は何事も成長だ。
バイトがなかった中学高校時代はとにかくずっとwikiを読んでいた。機体や武器の性能を丸暗記している頭でっかちのプレイヤーだった。
当時はプレイ量が少なかったからかあまり覚えていない。唯一の思い出といえばゲーセンの入り口でやんちゃなガキ共と肩がぶつかり、15対1くらいで囲まれたものの、1番近くにいたキッズの胸ぐらを掴んで振り回したら撃退できた事ぐらいだ。
あの時ばかりは我がご先祖に感謝した。父方は村上水軍で母方は熊本武士だ。俺にも戦闘民族の血が流れていたようで安心した。
高校を卒業すると馴染みのゲーセン仲間とも休日以外は会うことがなくなり、俺はボーダーブレイクの交流を求めた。
取り急ぎTwitterのアカウントを作り、クランに参加した。この時参加したリアクトの創設者でありクラマスの男は霊長類で1番面白い炎上芸人だったので本当に楽しかった。
本来、人数が2桁を超える交流が「口論の強さを誇示してくる女」と同じくらい苦手なこの俺がよくもこんなに打ち解けたと驚いた。まあ、発作的に多人数交流のライン部屋にアレルギー反応を起こしてササっと抜けたが、個人個人の付き合いは残っているからこその判断だったと思う。
このクランを通して知り合った何人かの友人達がボーダーブレイクを超えて交流できるようになった。サービスが終了しても財産はここにある。
家庭版は全くもって始める気持ちが湧かないのでボーダーブレイクとはこれっきりだ。
バイバイ!安らかに眠れ!
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