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小説「升田のごとく」・第10話

 増田耕造は逃げる逃げる。竹内知美は追いかける。
 店から路地裏へ、路地裏から表通りへ、人込みを縫うように逃走する中年男と追走する若い娘。道行く人々が何事かと振り向く中、白昼の捕り物劇はあっけなく幕を閉じた。49歳と20歳。その脚力の差は歴然だったのだ。
「はあ、はあ、はあ……。お願いだ、竹内君、見逃してくれ。はあ、はあ、はあ……」
「はあ、はあ、はあ……。増田さん、どうして逃げるんですか? 見逃してくれって、どういう意味ですか?」
「はあ、はあ、はあ……。僕が仮病で休んでいること、会社には黙っていてくれないか。はあ、はあ、はあ……」
「はあ、はあ、はあ……。仮病? そんなこと、誰にも言いませんよ」
「はあ、はあ、はあ……。ありがとう、竹内君。恩に着るよ。はあ、はあ、はあ……」
「はあ、はあ、はあ……。それより、増田さん」
「はあ、はあ、はあ……。なに? はあ、はあ、はあ……」
「いきなり追いかけっこしたので、私、喉が渇いちゃいました。お茶、ごちそうしてください」

 神田神保町の、表通りに面した喫茶店。ミルクティーを啜りながら、竹内知美は大きな瞳で、じっと耕造の顔を見つめている。そして、ティーカップをソーサーに戻すと、いつもの愛くるしい受付嬢の笑顔を浮かべて言った。
「おでこの傷、治ったみたい。良かったですね」
 その言葉に、どぎまぎしながら、耕造は答える。
「あ、ああ。ありがとう。あのとき、君がしてくれた応急処置のおかげだよ。でもね、お医者さんが、大事を取った方がいいって言うものだから、それで会社を休むことに……」
「うふふ」
 知美が笑う。その無邪気な瞳に、心の中を見透かされているような気がして、耕造は視線をテーブルに落とし、コーヒーカップに手を伸ばした。
「でも、さっきはびっくりしちゃった。だって、祖父のお店に行ったら、増田さんがいるんだもの。将棋に興味があるんですか? 増田さん」
 話題が変わったことに、耕造は安堵した。気持ちが落ち着いたせいか、先ほどまでとは打って変わって饒舌になり、自分がどれだけ升田幸三という伝説の棋士に惹かれているかということを、昨日の午後から今し方までの丸1日間に起きた出来事に沿って滔々と述べたてた。
 耕造の熱弁に、知美はじっと耳を傾けている。そして話を聞き終えると、彼女はとても嬉しそうな表情になり、声を弾ませて言った。
「そんなに好きなんですか! 升田のおじいちゃんのことが!」
 知美の口から飛び出した言葉に、耕造はハッとした。升田のおじいちゃん。そうか、そうだった。今、自分の目の前にいるこの女性は、升田幸三に手ほどきを受けた将棋の達人なのだった。
 しかし、それは本当なのだろうか。会社の受付カウンターに座っているときの知美は、制服に身を包み、多少の化粧もしているから、それなりに落ち着いた印象を受ける。だが、革ジャンにジーパンという飾り気のない服装に、あどけない少女のような素顔を組み合わせた今日の彼女は、どう見ても普通の若者であり、新橋の将棋道場で師範の大役を務める実力七段の猛者とはとても思えないのだ。
「初めて升田のおじいちゃんに会ったのは、私が4つのときでした。祖父に連れられて、中野のお宅へ遊びに行ったんです。私を見るなり、升田のおじいちゃん、こう言ったわ。モミガラ、可愛い孫娘じゃのう。お前にはちっとも似とらんのう、って」
 確かに、ガリガリに瘦せこけたモミガラ氏と、ふっくらとした顔立ちの知美は、まるで似ていない。それは、先ほどから耕造も思っていたことだ。
「私ね、父親似なんですよ。祖父にそっくりなのは、私の母。関西で古本屋を経営していた祖父が45のときに生まれた一人娘なんです、母は。22で上京し、就職した母は、父と職場結婚。その3年後に私が生まれたの。私も一人っ子だから、祖父にとって、この世でただ一人の孫なんです、私は」
 なるほど、そういうことか。耕造は納得した。90歳の祖父と、20歳の孫。齢が離れすぎているとも思ったが、それなら、ぴったり計算が合う。
「祖母に先立たれて、一人暮らしをしていた祖父に、東京に出てきて本屋をやらないかと説得したのは、実は升田のおじいちゃんなんです。将棋界から引退して、何年も経って、寂しかったんでしょうね。昔からの親友と、お茶でも飲みながら余生を過ごしたい。その思いは祖父も同じだったようで、それで、今から16年前、この神田の街にお店を構えたというわけなんです」
 コーヒーカップを口へ運びながら、知美の話に聞き入る耕造は、不思議な因縁を感じていた。自分が希望に満ちた結婚生活をスタートさせ、子供を授かったちょうどその頃に、この街の片隅で、ひとりの老人が、新しい人生の門出に胸を膨らませていたのだ。
 知美に微笑みかけながら、耕造は言った。
「モミガラさんは、嬉しかっただろうね。長年の友人に、自慢のお孫さんを見せられて。可愛い可愛いと誉められて」
 その言葉に、照れくさそうな表情をしながら、知美はミルクティーを啜った。それから、また口を開いた。
「升田のおじいちゃん、私を抱っこして、言いました。お嬢ちゃんや、一局、指そうか。そして将棋盤の上に駒を並べると、大きな手で私の手をつかみ、声を出しながら私に駒を動かさせたんです。7六歩、ほい、3四歩、ほい。7五歩、ほい。8四歩、ほい。7八飛、ほい。8五歩、ほい。4八玉、ほい。おおーっ、見てみい、モミガラよ! お前の孫は天才じゃ! 升田式石田流を指しよった! わーっはっはっはっはーっ!」
 知美の発した豪快な笑い声に、店内の客たちが振り向いた。慌てて両手で口を塞ぐ知美。その素振りがおかしくて、今度は耕造が笑い出してしまった。
「それが、君の、将棋との出会いだったんだね」
 知美は、頷いて答えた。
「あのときの、駒を手にした感じ。盤をさわった感じ。木の音。木の匂い。木の温もり。それらのすべてに何とも言えない心地よさがあって、私、すっかり将棋が好きになりました。それから升田のおじいちゃんに駒の動かし方やルールを教わって、将棋というゲームの面白さが分かってくるにつれ、ますます夢中になっていったんです。私がどんどん上達していくのを、升田のおじいちゃんはニコニコしながら見守ってくれていました。私が小学校に上がるのと同時に、升田のおじいちゃんは天国へ行ってしまったけれど、升田幸三の将棋は、今も生きているんです。この私の中に」
 そうか、この女性は、言わば升田幸三の最後の弟子なんだな。しかし、天才棋士の系譜を継ぐ人物が、職業棋士の道を選ばずに、なぜ小さな広告会社の受付の仕事に就いているのだろう。耕造は訊いてみた。
「そんなに将棋が好きで、才能も実力も十分すぎるほどあるのに、どうして君はプロの将棋指しにならなかったの?」
 その問いかけに、知美はしばし沈黙し、言葉を探し始めた。やがてティーカップを手に取ると、残りのミルクティーを飲み干し、明るい笑顔を耕造に向けて言った。
「増田さん。私ね、みんなを応援するのが好きなんです。みんなの元気な顔を見ていると、自分がとても嬉しくなるんです。将棋道場へ行くとね、いろんな年齢の、いろんな性格をしたお客さんたちが、夢中になって将棋を指してるの。そういう姿を見ていて、私、いつも思うんです。ああ、今日も、みんな輝いてるなあって。みんな、会社や家庭で、いろんなことがあると思うのね。辛いことや苦しいことだって、いろいろあると思うの。でもね、将棋を指しているときは、みんな、目がキラキラしてる。すっごくいい顔してるんです。将棋には、人を元気にする力がある。私、そう信じています。道場の師範になってほしいと頼まれて、私がオーケーしたのも、そういう理由なんです。ほんの少しでも、お客さんたちの幸せな時間のお手伝いができるのなら、私、それだけで満足。プロの棋士になって活躍すれば、お金とか名誉とかを手にできるかもしれない。でも、そんなものより、私は、みんなの笑顔といっしょに過ごせる時間を大切にしたいの」
 はつらつとした声に、力をこめて知美は話す。その純真さに引きこまれ、耕造はじっと聞き入っている。
「それと同じように、私、会社の仕事も大好きなんです。頑張って仕事をしているみんなを、いつも受付のカウンターから応援してるんですよ。みんなが元気な顔をして会社から出かけていくのを見ると、私、すごく嬉しくなるし。疲れた顔をして会社に帰ってくる人たちには、お疲れ様でした、また元気になって頑張ってくださいねって、心の中で、いつも声をかけているんです」
 知美の話には、若さの生命力が溢れている。聞いている耕造には、それが、とてもうらやましく思えるのだった。
「だから、増田さん。元気を出してくださいね」
「え? ぼ、僕?」
 急に話の矛先を向けられ、耕造はうろたえた。
「そう。増田さん。ちっとも元気がないでしょう。私、入社してからずっと、増田さんのことが気になっていたんですよ。朝から疲れた顔をして会社に来るし、出かけるときはいつも辛そうな顔。名前は升田のおじいちゃんと同じなのに、態度や雰囲気が升田のおじいちゃんとはまるで違うんだもの。どうしてこの人、こんなに暗いのかなって……。あっ、ごめんなさい。私、ちょっと言いすぎたかしら……」
 申し訳なさそうな顔をして、知美は黙りこんだ。
 それを見て、耕造は呟くように言った。
「いや。いいんだ。本当のことだもの……」
 沈んだ空気の中で、向かい合う二人。
 そのとき、知美の革ジャンの胸ポケットで、携帯電話の着信音が鳴った。
 耕造に一礼すると、知美は電話を取り出して開き、ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし……。あ、杉下さん……。今、神保町ですけど……。えっ、何ですって!」
 通話をする知美の表情が、突然、険しくなった。
「どうしてそんなことに! 分かりました、すぐ行きます!」
 電話を切り、ポケットに戻した知美は、厳しい顔をしたまま耕造に告げた。
「将棋道場に急用ができました。済みませんけど、今日はこれで失礼します」
 椅子から立ち上がり、店のドアへ向かおうとする知美。その背後へ、耕造が声をかける。
「急用って、何か悪いことでも?」
 ドアへ進みながら、知美が答える。
「お客さんが大変なの。私、勝負しなくちゃ、黒豹と」
 その返事に弾かれたように、耕造も席を立ち、知美の後を追う。
「勝負? 黒豹? 将棋の対決だね! 僕もいっしょに行く! 見せてくれ、君の将棋を! 升田幸三の将棋を!」
 慌ただしく会計を済ませると、知美に続いて、耕造は喫茶店を飛び出した。

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