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将棋小説「三と三」・第8話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 東京・有楽町の蚕糸会館。残暑の日のことだった。
 木村義雄は、目の前にいる神田辰之助が嫌いだった。
 将棋界にクーデターのような事件を起こして無理やりに八段となり、ごり押しに第一期実力制名人決定大棋戦への参加資格も手に入れて、今こうして自分と盤を挟み、その一局を戦っている目の前の神田が嫌いだった。
 全八段が先手番と後手番の対局を交互に二局ずつ行なう特別リーグ戦での平均得点と、リーグ戦以外の対七段・八段戦における平均得点を加算して名人位を決めるという複雑な制度ゆえに、開始から終了まで二年の期間を要するという大棋戦なのだが、神田の事件に同調する不届きな輩が続出して将棋連盟から離れ、神田一派と徒党を組んで将棋革新協会なる団体を立ち上げ、将棋連盟に対して抗い続けた。小菅翁の調停のおかげで和解し将棋大成会が発足したとは言え、この男の暴挙のせいで名人決定大棋戦に半年間の空白が生じてしまった。二年をかける棋戦がさらに延びて、二年半もの月日を費やす棋戦となってしまい、そのおかげでこの木村が新名人の座に就くのがずっと先延ばしになってしまった。その元凶である神田が嫌いだった。
 羽織袴をまとった体躯は大柄で、眼鏡をかけた浅黒い顔に対局の開始前はにこにこと愛想笑いなど浮かべていたが、その右目といったら酷い斜視で、対局が始まるや顔を斜めに構えて盤面を凝視し、首を左右に振りながら読み耽っている。そのふてぶてしい態度から関西では「闘将」などと持てはやされているそうだが、何のことはない、不細工な男である神田が嫌いだった。
煙草が大好物らしく、今朝も対局室に現れるなり、袋からゴールデンバットを二十箱くらい取り出して座布団の脇に半分ずつ分けて積み重ねた。それを、対局中に絶えず吸う。一本をちょっと吸うと灰皿の中に放り捨て、燻っているのも構わずに次の一本に火をつけるといった吸い方で、用意した煙草の箱をどんどん減らしている。どうやらそういう動作の繰り返しのリズムによって、頭の中の読み筋を整理しているようなのだが、時おり煙をパーッと火山のように吐き上げたり、プーッとこちらに向かって吹きつけてきたりするのが明らかに意図的な、神田が嫌いだった。
 浪曲を聴くのも語るのも好物だそうで、桃中軒雲右衛門や梅中軒鶯童などの芸に憧れ、自分も浪曲師になりたくてドサ回りの一座に加わり、中国四国方面を数か月巡業した時代もあったそうだが、とどのつまりは本職になれず、仕方がなくて将棋で身を立てることに
したらしい。浪曲好きは別に構わないが、対局の最中なのに、こちらの桂馬を取りながら「どうせ取っても桂は桂いィ~」などと無意味な節をつけて唸っているのは、おそらくただの阿呆に違いない、神田が嫌いだった。
 受けの達人と呼ばれるこの木村に対し、愚かにも無理攻めを仕掛けてきて、苦戦に陥ってしまっている目の前の四十男は「闘将」の他に「希代の勝負師」という異名も持っているそうだ。麻雀、花札、サイコロ、何でもござれで、何か勝負事をしていないと落着けぬ種類の人間であるとの評判も聞く。弟子に向かって将棋を教えてやろうと言い、その代りタダでは教えてやらんよ一局二十五銭の賭け将棋でいこうと言い添えて、情け容赦なく食費や生活費をむしり取っているという噂も流れている。何が勝負師だ、ケチなペテン師ではないか。そもそも、この木村に勝てそうな気配がまったくないのだから、勝負師ではなく「負師」と呼んだほうが適切と思われる神田が嫌いだった。
 それだけではない。素人将棋の旦那衆をカモにするのも、この男の得意なのだと聞いた。関西には古くからの隠語で「殺しもん」という物騒な言葉があるそうだ。それは賭け事によってカモを料理する事業のことを意味し、将棋好きの金満家を求めて大阪から紀州の海沿いまで、この男は殺しもん事業を拡張していったらしいのだ。将棋界がいまだにバクチ打ちの集団という偏見を世間から被っているのは、このような輩が跋扈しているからであり、その張本人とも言うべき神田が大嫌いだった。
 将棋は終盤戦に入り、神田の劣勢から敗勢へと傾きかけている。よし、そろそろ止めを刺してやるか。
 それまで胸中に秘めていた神田への悪罵を、木村は声に出して、本人に聞かせ始めた。
「神田辰之助という男、バクチ狂いのみならず、女癖の悪さも極めつきだ」
「え……?」
 虚を衝かれ、顔を上げた神田に、木村は言葉を投げつける。
「女房、愛人、取っ替え引っ替えすること、数知れず」
「う……」
「最初の女房、その名は、いし。一男をもうけたものの、妻子は養いたいが金は無し。そこで辰之助は稼ぎを得ようと焼芋売りや郵便配達夫などもしたが、堅気の仕事が長続きするはずもなく、妻も子も家に残したまま、賭け将棋の道へ逃げた」
「く……」
「紀州は田辺で、へぼ将棋の資産家をカモにして、つかんだ金で芸者屋へ。すると、そこの帳場には子連れの出戻り娘が働いていた。名前を千代というこの娘に、さっそく辰之助は手をつけた。そうして女児のコブつきのまま、大阪に連れて帰り、同棲生活を始めた。我慢強い性格の千代は、バクチに明け暮れる貧乏な日々にも耐え、賭け将棋で負けるたびに腹いせに平手打ちを食らわすような辰之助の暴力的な性格をも堪えることができたから、同棲暮らしも数年は続いた。しかし、いくら我慢が強くても、おのずと限界というものがあった」
「…………」
「ある日のこと、千代と姪とに会いたくて、田舎から妹が訪ねてきた。可愛い姪っ子と遊んでいるうちに、千代の勧めもあって、しばらく滞在することになった。ところが、みずみずしい若さの溢れるこの妹に対して、辰之助は色情狂であることを隠さなかった。千代の留守中に、まだ女学生である妹に鬼畜のごとく襲いかかり、清い身体を穢し、そのうえ妊娠までさせた」
「…………」
「あまりの出来事に、千代は激しく泣いて怒り、間もなく心臓発作を起こして死んだ。妹は田舎の兄のもとへ引き戻され、そこで男の児を出産した。悪魔もたじたじの男、それが神田辰之助」
「…………」
「次なる犠牲者は、れい子という名の女だった……」
「やめてくれえ!」
 呆然と木村の面罵を聞いていた神田が、突如、大声を発した。
「や、やめてくれえ! そないなこと、将棋と関係あらへんやないか! 今やってるのは将棋の対局やないか!」
 そのわめき声に、木村は冷然と応じた。
「ならば指したまえよ」
「う……」
「次は、あんたの手番だろう。さあ、指したまえよ」
「うう……」
「指し手に窮して、弱っているのだろうが、神田さんよ、あんたは闘将だろ、希代の勝負師だろ。ならば指したまえよ」
「ううう……」
「早く指したまえよ」
「うううう……」
「指さぬか! 神田辰之助!」
 鬼の形相となって、木村は声を張り上げた。その大音声に弾かれて、神田は自陣の玉をふらっと左へ動かした。
「その手を待っていたのさ」
 金縁眼鏡の奥の目に意地悪な笑みを浮かべて、木村は駒台から角を摘まみ上げると、それを盤上にバッシーンと打ち下ろした。
「王手だ!」
 木村の大声にまたも弾かれ、震える手つきで神田は玉を上へ逃がした。
 間髪を容れず、木村は駒台から飛車を取り、盤上にビッシーンと叩きつけた。
「王手だ!」
 神田、ふらふらと玉を逃がす。木村、銀をつかんで突き立てる。
「王手だ!」
 神田、玉を逃がそうとしたが、もはや逃げ場所はどこにもなく、詰まされたのを悟ると、ぽろり、その手から玉の駒を落とした。
 それを見て、木村は冷たく言った。
「あんたの負けだよ、神田さん」
「…………」
 無言のままの相手に、木村は言い被せた。
「負けたら、何と挨拶するのかね?」
 沈黙を続ける神田は、ようやく声を絞り出した。
「……ま、参りました……」
 投了のかすれ声を聞くと、おもむろに座布団から立ち上がり、木村は対局室を出ようとした。
 その後ろ姿に、
「な、何で、わてのことを、そないに、そないに詳しく……?」
 そう問いかけた神田に、
「調べたのさ、探偵社を使ってね」
 振り返り、木村は答えた。
「彼を知り己を知れば百戦殆うからずと、孫子の兵法にもあるだろう。特に、あんたには去年のクーデターの際の将棋で不覚を取っているからね。初手合いで、あんたの棋風がよく分からなかったのさ。形の上ではすっきりとした関東流だったのが、中終盤になると関西流の粘っこい力を出してきた。そんな将棋に、この木村さえも惑わされてしまってね。そういう経緯があったので、この名人決定リーグの一戦に備えて、あんたの将棋や人物や素行なども含めて、いろいろと詳しく調べさせてもらったのさ。神田さんよ、これこそ勝負師の在り方というものだろう。もう二度と、あんたには負けてあげないからね」
 そう言って、部屋の襖を開けると、
「木見さんといい、あんたといい……」
 最後のせりふを吐きながら、木村は出ていった。
「……関西の棋士など、取るに足らぬものだ」

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