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小説「升田のごとく」・第20話

 1月8日、土曜日。
 耕造は、神田神保町を歩いていた。
 社内コンペの勝利を、モミガラ老人に報告したかったのだ。
 30社企画競争に臨むすべての作業は、すでに完了していた。
 耕造の手に成るクリエイティブ企画に、マーケティング戦略、メディア計画、プロモーション企画などを加えたウォーターフロントプロジェクトに関する新富エージェンシーの総合的な広告キャンペーン企画案は、昨夕、帝国不動産へ無事に提出を終えたのだ。後は、来週に行われる結果の発表を待つばかりとなっている。
 店のガラス戸を引き開けると、老人の笑顔が待ちかまえていた。
「おお、増田はん。どうやった、一世一代の大勝負は?」
「ありがとうございます。おかげさまで、序盤から中盤戦にかけて優勢を保っています。はたして終盤戦をこのままの勢いで勝ちきることができるか、運を天に委ねるのみです」
 そう答えると、耕造は深く礼をした。
「おお、そうかそうか。けど、大丈夫やで。あんたには、升田幸三がついとるからね」
 慈愛に満ちたその言葉に、あらためて感謝する、耕造。
「ところでな、増田はん」
「はい?」
「あんた、宣伝文句を作る名人やったな」
「いえいえ、名人だなんて、とんでもない。ただのコピーライターですよ」
 照れる耕造に、モミガラ老人は言った。
「実はな、あんたに頼みがあるのや」
「頼み?」
「そうや。頼みや。聞いてくれるか」
「もちろん。私にできることでしたら、何でも」
 耕造が笑顔で応じると、老人は嬉しそうに言った。
「さよか。ほな、頼むで。あのな、求人広告というやつを作ってほしいのや」
「求人広告?」
「そや。求人広告や。人を雇いたいのや」
 意外な発言だった。路地裏の、小さなこの店。来客も多くはない。なのに、どうして新たな従業員が必要なのだろうか。
 不思議そうな表情を浮かべる、耕造。その疑問に答えるように、モミガラ老人は言った。
「あのな。ワシ、店を大きくすることにしたのや」
「大きく、ですか?」
「そや。こないだも話をしたけど、あの升田の書が3千万円で売れたやろ。そのお金で、もっと大きな店に移ろうと思うているのや」
「…………」
「棺桶に片足を突っこんだ、こんな老いぼれが言うのも何やけど、ワシはな、将棋というものを守っていきたいのや。この国の生んだ素晴らしき伝統文化を、いつまでも絶やさぬようにしておきたいのや。時代が進むにつれて、将棋を指す人たちはどんどん減っていく一方や。世の中、新しい娯楽が次から次へと生まれてきとるしな。このままやと、いつか将棋は滅びてしまう。ワシには、それが耐えられんのやなあ」
「…………」
「表通りに、北晶堂書店という大きな古本屋があるやろ。あの店、今月いっぱいで廃業するらしい。何十年も続いた老舗やけど、跡継ぎがおらんのやて。そこでな、ワシはあそこへ、この店を移すことにしたのや」
「…………」
「増田はん。ワシは、孫の知美に、この店を継がせたいのや。升田幸三の将棋を受け継ぐあの子に、な。けど、知美はまだ若い。これからやりたいことも、たくさんあるやろう。そやけど、将来いつの日か、きっとあの子はワシの跡を歩んでくれる。ワシには、それが分かるのや。あの子の中には、ワシと同じ血が流れとるからね」
「…………」
「ワシの寿命も、残りわずかやろ。ワシがこの世から消えた後、知美がこの店の主になるまで、その間の歳月を誰かに任せたいのや。責任を持って、この店を守ってくれる誰か。そんな人間をワシは探したいのや。そやから、増田はん。求人広告、頼んだで」


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