小説「ころがる彼女」・第8話
また、きた。
あの、蜘蛛の化物が。
あれから、ずっと姿を見せなかったから、すっかり安心していたのに。また、やってきたのだ、私の夢のなかに。私を苦しめるために。殺すために。
ほら、声がする、暗闇の向こうから。
「ゆうみこおー」
そして、ほら、現れた。棘と毛にびっしりと覆われた八本の関節肢を持つ怪物が、それらを不気味に動かしながら、私の前に迫ってきた。地鳴りのような声を響かせて。
「ゆううみこおおー、逃げられんぞおおー」
メガネザルみたいな、その蜘蛛の顔が、まもなく人間の男の顔に変わった。それは、叔父の顔。福岡の叔父さんの顔。でも、すぐ目の前にあるのに、その顔がどんな人相をしているのか、私には分からない。なぜなら、叔父の顔を、まったく覚えていないから。
大きな腹部の突起から、しゅるしゅると吹き出されている糸が、私のほうに向きを変え、ねばねばと顔に貼りついてくる。それとともに、人面蜘蛛が、おぞましい言葉を吐きかけてくる。
「弓子。何度も言うが、おまえは、逃げられないんだぞ。躁と鬱の反復から、どうやっても抜け出せないんだぞ。双極性障害は、呪われた病だ。俺を呪い、おまえを呪い、われら一族を未来永劫、呪い続ける。この連鎖を断ち切ろうなどと思うなよ。百万年かけても、絶対に切れやしない。これは運命というやつだからな。弓子、運命に逆らうな。弓子、運命に従え。弓子、運命にひざまずけ。弓子、こう祈れ。私の病気を治さないでください。私をまた躁状態に引き上げてください。それから鬱状態に落としてください。そしてまた躁状態に引き上げてください。さらにさらに鬱状態に落としてください。そうしてまたまた躁状態に引き上げてください。この絶望の反復を、どうぞ永遠に繰り返してください、とな。よーく分かったか、弓子」
ああ。その通りだ。
せっかく、鬱から回復したというのに、やがて心の均衡は崩れ、躁に向かって私は突き進んでいくのだろう。これまでも、そうだったから。これからも、きっと、そうに違いない。
最後に、
「地獄へ堕ちろ」
と言いながら、化物蜘蛛は、鋭い鋏角を私の胸めがけて突き出した。殺されるのだと思ったその瞬間、蜘蛛の右脚が、スパッと切り落とされた。
「ぐう」
蜘蛛が鈍い声を発した直後、こんどは左の脚が、ビシッと切り飛ばされた。
「ぐ、ぐう」
見ると、いつの間にか、人影があった。その人影は、ナギナタを振るって、蜘蛛の脚を切断しているのだった。
スパッ。スパッ。スパッ。
ビシッ。ビシッ。ビシッ。
あっという間に、蜘蛛は八本の脚のすべてを失った。
「ぐううーっ」
苦痛と憎悪の声を響かせると、蜘蛛は体をボールのように丸め、暗闇の向こうへ転がり去っていった。
その様子を見届けると、人影は
「オーロラがきれいだったよ、南極は」
そう言い残して、姿を消した。
いったい、なにが起きたのか、分からない。
いったい、誰だったのかも、分からない。
これは夢のなかの出来事なのだから。