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【正義】どこから闇なのか、光なのか。

「正義」はどこまでも付きまとっていく。


法律や道徳、倫理観。
その場所のルール。その土地のルール。
どれも従わないとその人は正義になれないのか。
郷に入っては郷に従えを全うしないとその世界で生きていけないのか。

八方美人にはなれない。

自己犠牲か、他者を優先するかという話になる。
つまり、それなりの正義を語るには多少の余裕を持っていないと選ぶ権利すら与えられないのである。

闇も光も、そもそも生き方を選べない。
その生き方しか知らなければ、闇も光も分かり合う事はできない。

人間は誰しもが演じている。

これに関しては物心が付いた時に人は演じる事を覚えるのだと思っている。
親や学校の先生に歯向かっても仕方がないので従うフリを覚えたり、社会人なら上司や同僚にいい顔をしたりする。合意の上で表面上の付き合いをしているのだ。

内面まで予想をしてみろ? その先は闇だ。
だから、見なくていい部分はお互い見なくていいのである。
それが社会なのだ。

嘘は言わなければ嘘にならない

本音と建前があるから円滑に社会が回っているのだ。
余計な一言を言うから問題が起きるのだ、いつだって同じ。
全てを言う必要はないのである。

だから、他人の顔を伺う事は生きていく上で必要不可欠、ごく当たり前の事なのだ。

他人に迷惑さえかけなければ好きに生きていい。

(+社会貢献をしていたらベスト)
迷惑の程にもよるが、この考え方が一番しっくり事ではあると思う。
ダークサイドに落ちるという考え方は本当の意味で迷惑さえかけなければ、その人は光の中で生きている事になると思う。
仮に自分が親だったとして、子供にはそう生きて欲しいと願うと思う。
道を外さずに、それなりの生き方ができれば自分も満足だと思っている。

全ての人は救えない、好かれることもできない

結論、この考え方になる。
少しくらい道を踏み外したくらいなら手を伸ばす事は出来ると思う。
だが、手を差し伸べても取る取らないは相手次第だ。
どれだけ、心を開いたとしても無理な物は無理なのだ。

それ以上、期待しなければいい。
好きの反対はどうでもいいのである。

そうじゃないと自分の心を守ることができなくなるからだ。

全ての人間を愛することはできない

悲しきかな優先順位は存在する。自分と同じくらい家族は愛せるかもしれないが、パートナー友人知り合いと段々と負担は増えていく。
僕も愛せないし、相手も愛せない。それが現実なのだ。
お互い様の上で社会は成り立っているのだ。

だから友達は数じゃない。

友達100人できるかな?1ヵ月31日しかないのにどーやって予約を取るんだよ
100人も関係性を維持することできないよ。グループで関わればできなくはなさそうだが、何とも浅い関係性だと自分は思ってしまう。
それを好む人がいれば、その生き方は否定しないがね。

ただ、クラスメイトで例えると31人でさえ難しい事を踏まえれば現実を上手く呑み込めると思う。表面上の薄い関係なら31人仲良くできるかもしれないが、深い関係も求めるなら争いは絶えないのだろう。というより大人だったら尚更無理。
大人31人でみんな仲良くしようぜ!って恐ろしいよ。

自分のルールを決めれば道に迷う事はない。

例えごく一部にとってはダークサイド、または非常識と思われたとしても関係ない。
自分を守る為のルールは必要なのである。
どこまで個人情報を言うとか、ここまでは付き合え切れないとか。
そういうものがないと人は弱いから堕ちてしまうのだと思う。
全ての人間に好かれたいという事はそれだけ重い枷がかかっていることになる。

結局、自分が皆大事なのだ。


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