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余命三ヵ月。90日の生活。

家族が余命を受けて、どんな生活をしたのか。
そして、何を思ったのか。


医者から余命宣告。まるで自分が言われたような気持だった。
まず、自分の今後の生活の心配をしてしまった。
宣告された本人より先に自分の保身を考えてしまった。
多少の罪悪感。

表面上は元気に見える。僕も本人も。

当時自分は学生だった。周りのクラスメイトから見れば特に変わりはなかったように見えただろう。担任の先生はお通夜に参加していたので、やはり先生の立場でも思う所はあったと思う。赤の他人ではないから。
多分、僕は表面上はそう見えた。

律儀に自分は日記を毎日書き残していた。何も変わらない日常とさほど変わりはなかった。友達と遊んだり、学校のテストを受けたり、変哲のない学生のように見えたのだと思う。学校でもプライベートでもどこにでもいそうな学生だった。

今思えば周りも同じ境遇の人はいくらでもいたかもしれない。
表面上は分からないものである。

大人になった自分が過去の自分をどう見るか

やはり大丈夫そうに見えて大丈夫ではない。
本人は大丈夫と言っているかもしれないが、そこそこ思う所はある。
なので大丈夫ではないと思う。

本当にマズい時は休んだり、何かに没頭し続けないと人間は壊れてしまうのだと、今はそう思っている。謎の罪悪感より自分を優先した方が良い。

馬鹿真面目にその事実を見続けたら、誰でも余裕で精神が壊れるのだと思う。何事も寝て忘れた方が良い。あと単純に時間が勿体ない。

目を背け続ける勇気というのは年代は問わず必要な時はある。
年齢は関係ない。

予知能力のように91日でこの世から去った。

普通に過ごしてその時が来る。自分は自分の生活に集中していたから実感自体はなかった。現代の医学で分かってしまうんだなって事実が今になって恐ろしい。

時間というのは残酷なほど平等

今思い返せば、三ヵ月。たった90日という期限を突き付けられる残酷さ。
気が気でない状態だと思う。やはり当時の僕も甘えちゃダメなど抜かしていたが、別に自分を厳しくする必要はないのだと思う。
こちらとしてもご飯を作って食べなければ先にポックリなんて冗談が本当になってしまうほどに。

状況として本当にマズくなると他人が気にならなくなる。
今も思うけれど多少余裕がある時に人間は周りを気にしだすのだと思う。

こう思うと当時の自分が本当にマズい状況というのは自覚できないように感じる。
いい意味で麻痺しているのか、悪い意味でぶっ壊れるのか。
その二択のように感じるのだ。

自分自身が壊れていく自覚がない

数年前の経験だが、人は壊れていく事に慣れ始めてくる。
人が亡くなるというのはやはり二年は不安定になるとは思う。
一年ではやはり考えの整理は付かない。というより日数よりまとまった休みを貰わないと何かのショックに人は耐え切れないのだと僕は思っている。

一日、二日。または七日間で人が大きく変わることはできない。
すぐに判断が付くようなものでもない。これは何事にもそう言えるだろう。

これはあくまで余命宣告を家族が受けただけでこうなっている。
それと同等の近しいショックをその本人がダイレクトに受けたら、それ以上の被害は出るんじゃないのか?と勝手に自分は思っている。

人は動き続ける事で考えなくなるが、それはそれとして自分がボロボロになっている事にも気付けなくなるのだ。自分自身に絆創膏でも貼れば多少は自覚はするんじゃないのかなって思っている。

毎日様々な出来事はあるけれど、刻々とその日は誰でも近づいている事を忘れてはならない。

あと90日しかないんですか!?と思うより、100%楽しんでからその90日を待ち構えれば良い。どんな他人であれ時間の責任は取ってくれない。
付き合う人間は選んだ方が良い。自分が本当にそれで後悔しないと思うならどんな物事でも続けていいのだと自分は思っている。

他者から見て本当に無駄な事でも、当の本人が満足しているならきっとそれは正しい事なんだと思う。正解は存在しない。

表面上で何事も判断はできない。判断したように見えるが、そう見えているだけである。ただ、今を生きているだけで自分を褒めていいと看取った側の意見としてそう伝えたい。

いいじゃないですか、そういう人生だってあるんですよ。



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