催眠術でシャブはやめられるのか
2014、330
日曜日の夜に、放送してる「イってQ」って番組知ってるかい?
その中で時折、催眠術師が出てきて色々やってるけどさ、あれを本当だと思う反面、これはやらせじゃないの?ってのあるよね。
人の意識がそう簡単に操れるものなんだろうか。
大昔、男の引田天功が「さん、にー、いち」ってやってる頃から興味あったから、いまだに心理学ってのを勉強してみたい、ってのあるんだ。
20歳で結婚し、子供が生まれ、真面目に社会人やってた頃の俺の、誰にも言えない、たったひとつの秘密が覚せい剤だった。
薬をやってることよりも、秘密を持っていることが家族に後ろめたくて、そろそろ、こんな遊びはやめよう。と思った。
ところが、誰にも負けない、強い意志を持ってたつもりの自分が、そうではなかったことを、思い知らされる。
もうやめよう。強く思っても挫折し、今度こそと、自分を追い込んでみても負ける。意志の力ではどうにもならない薬の魔力に、焦りを感じた。
挫折を重ねることに慣れて、強かった自分を見失うと、人格さえも変わっていくような気がした。
そして家族を裏切っているという罪悪感は、どんどん高まっていく。 どんなに苦しくとも、他人に相談できる話じゃない。孤独だ。
覚せい剤中毒。それがどんなものなのか知っておかないといけない。どこまで行ったらもう、人間やめる覚悟がいるのか。自分をコントロールできないことが絶望的で、最悪の事まで考えるようなっていた。
本を読んで、怖いものだと理解しても、自分に歯止めをかける手掛かりにはならない。 病院に行って、僕は今、覚せい剤と戦っては負けるということを繰り返しています。というわけにもいかなかったのが30年前だ。
今のように覚せい剤の使用を病気だと捉えることはなく、ただの犯罪としか受け取ってもらえなかった時代だ。人前で覚せい剤という言葉を発することさえ罪悪感を覚えた。 そこで俺は催眠術師を訪ねてみる事にしたんだ。漫画のような話しだが、当時の俺にしてみたら真剣だったさ。
閑静な住宅街の、ごく普通の一軒が、小さな案内板を表に出していた。
ドアをノックして中に入ると、薄暗いリビングに通された。二人掛けのソファを向い合せたセッティングで、熱帯魚が泳ぐ水槽の明かりだけが二人を照らす。
「先生、俺の頭の中から、覚せい剤を消し下さい。そうでなけりゃ、怖いものだと植え付けてください.近寄っただけで苦しくなるように。」
子供が嫌いなピーマン食べるようになるんだぜ、タバコ吸ったら苦しくなるようして禁煙の手伝いさせたりしてんだ、俺の願いだってそれとおんなじだろう?
けれど先生は、催眠治療をする際のアイテムであろうチェーンのついたメダルを、片付け始めながらこう言った。
「歯を磨いたり顔をああったりする行為は習慣です。どんなに記憶を失ったひとでも顔の洗い方は忘れない。
覚せい剤はもうあなたの習慣になっている。そうなると私のところでは治療は不可能です。」って、簡単に断わられたよ。
催眠術で、誰もがが悪を憎み、犯罪がなくなるようになるなら、世界はとっくの昔に戦争をやめ、平和な社会をつくりあげていたろうよ。
えっつ?
そうだな、ごめん。話が世界の平和にまでぶっ飛んじゃったけど、要するに、俺にも、大事なもののために、薬と戦っていた純粋な頃はあったんだよ、と、そう言いたかったんだよ。
小学生くらいなら催眠術にかけられそうだがなあ。