このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その8.
『部屋から海が見えますか?』
「天草で一番の御馳走の自信あります」のコピーと、 その実践によって伊賀屋の経営は安定してきていたが、 その頃、時代は大きく変わろうとしているのを 私は、小さくはない不安とともに感じ取っていた。
お客様からのご予約時のお問い合わせの内容が大幅に変わってきたのだ。
以前は、お食事の内容、特に品数や、何階建ての建物か、 ということや、福岡から何時間くらいかかるのか、 というようなことをおたずねになる方々が多かったが、 バブル経済の終息が近づくにつれて、 その後の世界を暗示するかの如くそれは、 以下のおたずねに変わってきたのだ。
「部屋から海が見えますか」である。
ここで、「いいえ」と答えると、ガチャンと電話は切れる。
下田温泉は、開湯700年を超える古い温泉場で、 東西に流れる下津深江川に自噴する温泉源を使用していたことから、 海岸までは、歩いて数分を要する地に温泉街は形成されている。
見えないものは見えないとしか言うことはできない。
受話器をお持ちのままのお客様は 続いて次のようにおたずねになる。
「通りに面していますか」
ここで、「はい」と答えると、
「では、窓から隣の建物が見えるんですね」
ここで、また「はい」と答えざるを得ない。
すると、お客様は、 申し訳なさそうに今回の旅行の目的を教えてくださる。
「福岡から行くものですから。遠くてもいいから、 海か山のなかでゆっくりしたいと思っているんです」