石山離宮 五足のくつ/オーナー 山﨑 博文

天草下田温泉一の老舗『旅館 伊賀屋』の六代目として生まれた天草育ちの天草男児。2002…

石山離宮 五足のくつ/オーナー 山﨑 博文

天草下田温泉一の老舗『旅館 伊賀屋』の六代目として生まれた天草育ちの天草男児。2002年7月に東シナ海を見渡す山に全室露天風呂付き離れの温泉旅館『石山離宮 五足のくつ』をオープン。趣味は散歩と温泉と水泳。旅行家としての一面も持つ。

マガジン

  • このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない

    土地を購入して10年、構想10年。そして、2002年7月に東シナ海を見渡す山に全室露天風呂付き離れの温泉旅館『石山離宮 五足のくつ』をオープンすることができました。オープンするまでの出来事を綴りました。 *2014年から前ブログサイトにて書き続けていたシリーズです

最近の記事

このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その20.

その20.『東京ウォーカーと九州じゃらん』 『東京ウォーカー』にラーメン店「辰巳」の記事が掲載されてからは、 一日の売り上げが以前の倍の日もあった。 1990年代はじめの当時、インターネットは普及しておらず、 雑誌の影響力が全盛であった。 私は、伊賀屋でもこのような効果を作り出せないかと考えていた 。 あれは忘れもしない1995年、 リクルート社から九州じゃらんが創刊された。 さっそく掲載を申し込んだ。 「天然温泉24時間いつでも入れます」 「新鮮な海

    • このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その19.

      その19.『二週間ごとの上京』 アルバイトやパートの人たちは、当初、 我々を乗っ取り屋のように理解しているらしかった。 どうも前の店長がそういう説明をしており、 先入観を植え付けられているようだった。 だが、話してみると皆いい人たちで、 弟も安心したようだった。 私は、二週間毎に上京する生活が始まった。 この生活を何年か続けたことで ある気づきを得ることができた。 それは、移動する距離や時間に比例して 意識が肯定的になるということだ。 例えば、長期の

      • このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その18.

        その18.『弟のノート』 深夜の誰もいなくなったショッピングモールで、 弟と私ふたりで、まず出汁のチエックから始めた。 私も弟もこの店のラーメンを食べていたので 大体の察しはついていたし、 納品書から逆算して材料を推察することも可能だった。 壁に貼り付けてある走り書きのメモや社名入りのカレンダーなど その店のなかのあらゆる物がさまざまなヒントとしてあった。 「明日から大丈夫か」と問うと、 弟は笑いながら 「これまで経験してきた食品に関する知識と技術を 駆

        • このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その17.

          その17.『弟の夢』 ちょうどその頃、 弟が伊賀屋の調理をやっていたのだが、 彼はまだ当時20代で、 もう一度、都会の空気を吸いたい、 と思っているような節があった。 彼は、幼いころから手が器用で、 寿司屋かラーメン屋になりたいとよく言っていた。 中学を卒業する際には、 自分で京都の和菓子屋さんをさがしてきて そこに就職すると言っていたが、 両親に説得されて鹿児島の調理科のある高校へ止む無く進学した。 その後、製パンメーカーに就職してパン作りのプロとなった後、

        このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その20.

        マガジン

        • このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない
          18本

        記事

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その16.

          その16.『浦安のラーメン屋』 とにかくもう一度、足元を見直す必要があった。 金融機関を説得するだけの実績をつくること。 だれも考えたことがないような旅館のプランを創ること。 最初の事業計画書を実現することができなかった私が その時点でできることといえば、 浦安でのラーメン屋の出店だった。 事業計画書のプランをつくるに際して、 協力していただいた建築家のSさんが紹介してくれたものである。 ある関西のアパレルメーカーが出店していたが振るわず、 新たな運営先をさがし

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その16.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その15.

          『増価主義』 城先生との契約期間は、過ぎた。 第一回目の記念すべき事業計画書は実現することなく今も 私のデスクのなかに眠っている。 城先生とは、それ以来20年間、一度もお会いしていないが、 先生に教えていただいて今も大切にしている言葉に 「増価主義」というのがある。 あれはたしか、建築家やホテル経営者など何人かで ヨーロッパのホテルクリニックツアーに 出かけたときのことだったと思う。 「サンジャンキャップフェラ」などコートダジュールのホテルを ジャパンマネーがま

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その15.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その14.

          『捨てられた事業計画書』 「北海道と沖縄に観光客が多いのは、なぜだかわかる?」 ホテル&レジャーコンサルタンツの城堅人先生は、 まだ荒れ果てた状態の私の土地でこのように質問し、続けた。 「それは、日本列島の果てにあるからです。 とにかく人は、果てに行きたがる」 「では、富士山の頂上にホテルがあれば、賑わうのでしょうね」 そうです。 だから、西の果てのこの土地を買ったあなたのこれからの人生は、 今までとは全く別なものになるはずです」 最初の事業計画書を作成するのに

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その14.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その13.

          『せどや』 南フランスのエズ村は、別名・鷹巣村と呼ばれている。 鷹の巣は、雛や卵を守るため 外敵が近づくことができないほどの高地に 作られていることからそのように呼ばれているそうだ。 文字通り、切り立った崖の上、 海抜約420mに位置するエズ村は、その村一帯が観光地となっていて、 二軒のホテルがあるが、 そこにたどり着くまでの石畳の道を歩くのが楽しい。 人とすれ違うのがやっとという狭い道幅で、 しかも直線ではないので、 その先にどういう景色が現れるのか、とても楽しみ

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その13.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その12.

          『時代の変化』 日本でも古くからの温泉地などへ行くと、 「よくこんな急峻なところにつくったなあ」というような 自然の造り出した地形に素直に従った旅館に出会い、 感心させられることがある。 しかし、いつのころからか、 私にとってみればつまらない旅館が増えたような気がする。 それは、 日本が高度経済成長期に入った頃から増えたのではなかろうか。 つまり、 工務店が旅館を造りやすい状態の土地にして長方形の箱を造り、 そのなかに客室を入れ込むという効率優先の手法である。 実際

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その12.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その11

          『ポジターノの夢追い人 Mr.Carlo Cinque』 ナポリの空港に着いたのは、もう夜遅くだったが、 さらに車で3時間ほどのところに今回の目的のホテルはある。 アマルフィ地方のポジターノにある『イルサンピエトロ』である。 チエックインしたとき、時計を見ると、 天草の自宅を出て、すでに26時間を超えていた。 私は、疲れていた。 客室に案内されるなり、すぐにベッドに横になり、 珍しく酒も飲まずに寝た。 翌朝、目に飛び込んできた青い光に驚いた。 私のベッドのす

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その11

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その10.

          『幸運の女神』 私は、25歳くらいの頃、1987年頃から、 天草の下田温泉一帯で旅館建設用地を探し始めていた。 そして、29歳の4月頃であったと思う。 その土地に惹かれるように 私は歩いてこの土地にたどり着いた。 海を見渡す雑木山を何者かがすでに半分ほどを削っており、 また、その作業はかなり以前から放置されているようだった。 この土地を見た瞬間に私の心は波打った。 ここしかない、と思い、即、買うことを決めた。 その土地は、 地主と買主と土木工事請負人の三者でもめてい

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その10.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その9.

          『Hideaway』 その頃、アメリカでは、 「Hideaway:ハイダウェイ」という言葉がもてはやされていた。 「ハイダウェイホテル」や 「ハイダウェイレストラン」などという使われ方で、 日本では、「隠れ家」と訳されることが多かった。 つまり、大通りには面していないお店や施設で、 行くには不便であったり、遠かったりするが、 それ故に行くだけの価値があると思わせるお店や施設である。 ホテル業界では、エポックメイキングな出来事として、 1988年のアマンプリのオープンがあ

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その9.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その8.

          『部屋から海が見えますか?』 「天草で一番の御馳走の自信あります」のコピーと、 その実践によって伊賀屋の経営は安定してきていたが、 その頃、時代は大きく変わろうとしているのを 私は、小さくはない不安とともに感じ取っていた。 お客様からのご予約時のお問い合わせの内容が大幅に変わってきたのだ。 以前は、お食事の内容、特に品数や、何階建ての建物か、 ということや、福岡から何時間くらいかかるのか、 というようなことをおたずねになる方々が多かったが、 バブル経済の終息が近づ

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その8.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その7.

          土地の力あれは、たしか二度目のリスボンだったと思う。 滞在していたメリディアンを朝早く出発して、 私は、ファティマをめざした。 1917年、マリア様が降臨し、3人の少女たちに予言を伝えた、 というローマ法王も認められている奇跡が起きた地で、 カトリックの聖地のひとつに数えられている小さな町だ。 バス停を降りると、 さっそく聖母マリアを祀るバジリカという礼拝堂に向かったが、 その前に広がる広大な広場には圧倒された。 毎年、5月から11月の12,13日に行われる聖母出現祭

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その7.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その6.

          『サグレスの国民宿舎』 ポルトガルにはポサーダ、 スペインにはパラドールと呼ばれる国営のホテルがある (現在、ポサーダは、ペスターナグループという民間会社の運営)。 国策として観光産業を振興させるために 国が模範となるべきホテルを各地につくったという。 中世から残るお城や、貴族の館など をあるものは豪華に、またあるものは、興味深く手をいれて仕立ててある。 立地は、その土地特有の産業遺産跡や、手つかずの自然の中などであり、 まさにそのホテルそのものが、 その土地の観光資

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その6.

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その5.

          『リスボンの日本展』 私は、ポルトガル・リスボンのサンロケ教会で、 この教会にひと月滞在した天正遣欧少年使節団に思いを寄せてみた。 1582年に長崎を出港し、2年半後にリスボンに到着。 ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見したのは、 さらにそれから半年後であった。 帰国したのが1590年だから、8年間をかけた大旅行である。 出発時の年齢はわずか14,5歳であったという。 私は、リスボンの坂道をゆっくり走る路面電車を眺めながら歩いていると、 『日本展』と書かれた幕が下げ

          このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その5.