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このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その2.
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『理不尽な事象』
待ちに待ったタウンページの配布時期となった。
ドキドキした。
電話は鳴るのだろうかー
自分の単なる妄想ではなかったかー
私の心配を打ち消すかのように待ちに待った電話が鳴った。
受話器を取ると、 「おたくは、天草で一番なんですか」
「はい、そうです」と答えると
お客様は笑いながら「じゃ、おたくに予約するわ」とお答えになった。
それからは、母の言葉を借りると 「伊賀屋創業以来の予約電話の多い日々」が続いた。
私は、旅館の仕事がめっきり楽しくなり、 接客から掃除、料理、事務、送迎バスの運転手まで がむしゃらに働いた。
10室の旅館を家族で切り盛りし、 その人件費分で借金を返済するというわけだ。 父、母、姉、私、弟の家族全員で朝から晩まで働いて、 他人の作った借金を返済するというのは実に理不尽だが、 そうであるが故にそれには負けたくなかった。 学生時代に不条理なこの世界というのを頭では理解していたが、 ようやく腑に落ちかけていたのだろうと思う。
それまでの私は 水に濡れずに向こう岸まで泳ごうとしていた人間だった。
水に体をつけなければ、泳ぐことができない、 という当たり前のことに 理不尽な事象に出合って初めて気付いたのだから、 よほど私は能天気な生き方をしていたのだろう。
自分を後生大事にして水を恐れていたが、 泳ぎ始めたら楽しいじゃないか、というわけだ。
この世には、なにも恐れるものはなかった、 ということに気付いたのである。
メルヴィルの「白鯨」が、この時期の私の愛読書だった。