このことが無かったら五足のくつはできなかったに違いない その4.
『ポルトガルの船乗りたち』
ポルトガル・リスボンのバイロアルトという街は、 いつ行ってももの哀しく静かだ。
なぜならば、そこは、ファドの街だからだ。
ブエノスアイレスにアルゼンチンタンゴがあり、 パリにはシャンソンがあり、メンフィスにはブルースがあるように、 ここリスボンにはファドがある。
私は、スペインからポルトガルへ陸路で入ったが、 人も景色もそれまでの活気ある賑わいから一変した。
「物憂い」という表現がぴったりの凪いだ海と静かな人々。 女性は黒い服に身を包んでいる。
訊ねると、海に出た男たちは、いつ死ぬかわからない。 今日かもしれず、明日かもしれない。 だから、それに備えて喪服を日ごろから着ているという。 そのような女たちの運命をポルトガル語で「ファド」というそうだ。
バイロアルトには、ファドを聴かせてくれるお店が軒を連ねている。 イワシの塩焼きに葡萄酒を飲んでいると、 まるで天草にいるような感覚になる。
帰郷した頃、﨑津の教会の裏の波止場で、 鯵やカワハギの干物をつまみに葡萄酒をよく飲んでいた。 カセットレコーダーからは、銀巴里の今は亡き村上進さんの歌う 「コインブラの思い出」や「暗いはしけ」などが流れていた。
帰路、小さな橋の下の屋台をのぞいてみると、 破れた手書きのメニューに「TEMPERA」と書かれてあり、 注文してみると、たしかにそれは、天ぷらだった。
翌日、市場を散歩した。水揚げされた魚は、 どれも下田の港に揚がる魚と変わらないものばかりだった。 お昼ごはんは、鯵の南蛮漬けである。 まるで、ここは天草だ。
ポルトガルの船乗りたちが天草に来ることがなかったら、 五足のくつどころか、 今の日本の食文化さえも成り立っていなかったのではないか、 大袈裟だがそう思う。
私は、ポルトガルを気に入り、何度か訪れたが、 その頃、ファドの女王、 アマリア・ロドリゲスが天草の市民センターで歌った。 信じられないようだが、本当の話である。 彼女は、言っていた。 「この両国の古くからのお付き合いを今後も大事にしたい」と。
その翌年の1999年、彼女は亡くなった。
今は、リスボンのサンタ・エングラシア教会で、 エンリケ航海王子や、ヴァスコ・ダ・ガマなどとともに ポルトガル10人の英雄の一人として眠っている。
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