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地熱VOL.6 ◾️1996年 餓鬼スタジオライブ

1996年の冬、僕は暇さえあれば渋谷の洋服屋グロープインザダークに行ってダラダラと時間を過ごしていた。FAMILYで開催しているグロープのイベントも毎回行っていた。このテープにQやJUBE、SAKUが参加してるのも、そんな中ででよく顔を合わせていたからだ。SAKUは前作に続き2回目の参加になった。「リブロっていうやばい奴がいるのでもう一回テープに入れてほしい」と言われた。この辺まではすぐに決まった。

仕事が休みの昼頃にMPC3000でビートを作っていて、これで完成かなというタイミングで自宅の1階にあるコンビニに行った。Kダブシャインを見かけたので、お久しぶりですと声を掛けた。ダメ元で、上に住んでいるのでフリースタイルを録らせてもらえませんか?と聞いたら、「おー、いいよ」と言って頂いたので、そのまま家に来てもらい、出来たばかりのビートで録音した。

選曲に関しては京都でダンスをしていた頃をイメージして自分らしさを出せるだけ出したいと思っていた。真似されたくなかった必殺の曲順も惜しみなく出した。この頃になると「ゴッシーです」と挨拶すると「ミックステープの!」と返されることも多くなり、知名度が上がってきていた。このタイミングで良いテープを出せば有名になれるチャンスだと燃えていた。

餓鬼レンジャーのスタジオライブを入れようと決めたのは割と後の方だった。メンバー揃って2週間くらい僕の自宅に泊まっていた。一緒に曲を作ってデモテープをいろんなレコード会社に持って行くために東京へ来ていた。新しい曲もできたしこのテープにも入れたいと思ったが、餓鬼レンの曲を入れた4作目とは違う事をしたいと考えていた。ナイトフライトでもスタジオライブという形式はあったし、餓鬼レンはライブが良いと噂になっていたので、このテープ用にライブを収録するのはどうかと3人に相談したら快くOKしてくれた。

彼らの滞在予定も残り数日となり、あまり時間の余裕がなかったので録音は僕の仕事が終わってから夜に開始した。やってみると、ライブ想定なのでかなりの声の大きさだったことに気づいた。マンションの隣の部屋は住人ではなくアパレル関係の事務所なので夜は人がいないかもしれないが、向かいの部屋はちょっと雰囲気の違う事務所だった。大きな声を出して怒られないように、ヨシ君とシンには僕が寝室として使っていた和室に入ってもらい、扉も閉め、2人を閉じ込めて防音対策をした。ろくでなしブルースが〜と言っているのは寝室に置いてあった漫画を見つけたのだと思う。

DJは古賀がやっていたので僕は見守るだけだった。ライブなので編集なしで一発録りにこだわった。最後の方で上手くいかなかったり、僕が録音するのを忘れていたりとかで何回も最初からやり直した。ヨシ君の声が枯れてるはそのせいだ。何時間もやっているのでヨシ君はその部屋から出たがっていたし、録音中にも言ってしまっている。

この2週間は餓鬼レンジャーの曲制作やプロモーション活動のため時間の許す限り一緒にいた。ある日の夜、いつも通り僕は布団で寝ていたのだが、深夜に何かの気配を感じ目が覚めた。枕元を見ると、ヨシ君が日本酒の一升瓶を片手にあぐらをかいて座っていた。「ゴッシー君ありがとう、、ありがとう、」と呟きながら一人で号泣している。怖かったし絡むと面倒そうなので無視した。


こうして作られた地熱VOL.6は全国に流通していたのでこのテープで餓鬼レンジャーを知ったという人も多かった。反響の大きさから僕達は手応えを確実に感じて今後の活動にも夢が膨らんでいた。

この地熱VOL.6はしばらくの間、ミックスクラウドで聴けます。↓↓↓




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