【小説】水上リフレクション10
第十章(危険と収穫)
「ここで降りればよかっちゃろ」
「そうだ。早く降りろバカ」
歳三と誠二は千晶の応援のため、JRで博多駅から折尾駅まで行き、筑豊線に乗り換えて奥洞海駅まで行った。そこから歩いて五分程の所に若松ボートレース場はある。
ここ若松は全国でも数少ない、ナイターレースのみを開催しているレース場だ。夜の水面は照明の光で煌びやかな絶景を作る。二人は奥洞海駅を降りレース場へ向かっていた。時間はまだ十三時。千晶が出場する第3レースは十六時五十二分なので、まだまだ時間はある。早めに来た理由は、誠二が作ってきた応援幕を対岸に設置するために許可が必要だったからだ。誠二がデザインして業者に作らせたらしいが、なかなかの出来栄えで、誠二にしてはファインプレーだった。
二人は入場し、フェンス越しに風を受けながら水面を見下ろした。
「俺の応援幕が張ってあるばい。なんか嬉しかぁ」
誠二は乙女のように胸の前で手を組んでそう呟いた。周囲からは気持ち悪いデブに見えている。
「なんか緊張するばい」
「そうだな。今までは千晶ちゃんのファンとして、レースを見ていたが今回は違うからな」
そう冷静に返した歳三だったが、誠二よりも心臓の鼓動は大きかった。
「ひまじぃ!」
「なんだよ。うるせぇな」
「ちゃんと千晶ちゃんにいろいろ教えたちゃろーね」
「教えるもなにも、少しでも技術以外で、千晶ちゃんの武器になるように、ただアドバイスをしただけだ」
「それなら、よか!」
歳三は誠二に偉そうに言われるのはムカついたが、またアイアンクローの餌食はゴメンだった。
そして第1レースの展示航走が始まった。展示航走とはレース本番に向けて、エンジンの整備具合やターンの技術を、お客さんに見せる。いわゆる競馬でいうパドックみたいなものだ。今日は新鋭レーディース戦なので、女子レーサーばかりだ。誠二は舟券を買って、いつもの双眼鏡で女子レーサーの尻ばかりを見ていた。
歳三はそんな誠二を横目にビールを飲みながら、心を落ち着かせていた。
そして千晶の出場する第3レースの展示航走が始まった。
ピットから勢いよく飛び出してきた千晶は、いつもの能天気さが嘘のように格好良く歳三の目には映った。エンジンも上々のの仕上がり具合だった。2号艇なのでインコースに近い。相手も新人で成績も千晶より少し良いくらいのレベルだ。初日を好スタートで今節の幕を開ける条件は整っていた。
ただ彼の懸念材料は、5号艇桐原結菜がいたことだ。新聞では美人レーサー対決と煽っていたが、美鈴の話を彼は思い出し、少しだけ不安を感じていた。
誠二はというと、愛飲しているゴールデンバットを吸いながら
「千晶ちゃん、頑張れ~負けるな~」と
どこで買ってきたか分からない、インチキ和尚が持つようなドでかい数珠を摺合せながら、呪文のようにそう唱えていた。
そんな誠二の横から大きな声が聞こえた。
「2号艇の中原は駄目ばい。この中原千晶ちゃつまらんもん。このレースは①=③・①=④・③=④で決まりやな」
その瞬間、見知らぬオヤジに誠二のアイアンクローが、電光石火の如く炸裂した。
「痛っててて。なんばすっとか、こらっ」
「今、何て言った。千晶ちゃんの悪口ば言いよったやろうが!このハゲ」
見知らぬオヤジも、負けじと誠二の股間を鷲掴みにした。
「痛って。離さんか、こらっ」
「テメーこそ離せ、デブ」
ハゲとデブの醜い争いは衆目の中続いた。
そしていよいよ、ファンファーレが鳴り響き、レース開始が告げられた。歳三はハゲとデブを尻目に、ピットへと目をやった。その時、ビデオカメラを回している二宮が、いることに気が付いた。二宮を見て歳三は誠二の言葉を思い出していた。二宮は千晶を応援するのは苦しいと言っていたことだ。
選手たちは待機行動をすませ、スタート位置についた。
《さぁ6選手スタート位置に着きました。コース取りは5号艇の桐原が動いて3コース奪取に成功。2コース2号艇の中原の、横にピタリと着けました。進入コースは内側から1号艇・2号艇・5号艇、ダッシュ3号艇・4号艇・6号艇です。まもなくスタート十秒前。
今スタートしました。好スタートは2号艇の中原。トップスタートで1号艇を捲りにいきます。さぁ第1ターンマーク。まずは捲った2号艇中原が先に回る!
あっと、しかしターンミスか、大きく外に膨らんでしまった。その隙を見逃さず開いた所に3号艇、4号艇が差してきました。スタートは全艇正常でした。
現在先頭は3号艇、続いて4号艇、そして大外からグングン直線で伸ばしてくるのは2号艇中原です。さぁ勝負所、第2ターンマークはまず3号艇が先に回るが、直線で伸ばした2号艇中原が、4号艇を抑えて最内を差してくる!
あっとしかし、ここで5号艇桐原が突っ込んできた!これは危ない!2号艇と5号艇は接触して、2艇とも大きく外にはじき出された。そこに冷静なハンドル捌きで4号艇が2番手に浮上。絶妙のモンキーターンを決めたかに見えた2号艇中原は、惜しくも現在最後尾となってしまいました。
さぁレースも最終周回、最後のターンマークを回り全艇ゴールへと向かいます。
先頭で3号艇ゴールイン、2番手で4番号艇、そして1号艇、6号艇、5号艇ゴールイン。最後尾2号艇ゴールイン。以上、全艇ゴールインしました》
レース実況が終わり歳三は大きく息を吐きながら、空を見上げていた。今日は雲の合間から夕陽と同調するように、薄らと三日月が顔を出していた。彼の気持ちは複雑だった。もちろん悔しい気持ちが一番だったのは事実だが、嬉しくも思っていた。それは素晴らしいレースだったからだ。いつものように下位争いならば、そんな感情は湧き上がらないだろう。桐原結菜に邪魔されなければ・・・・そう考えるとさらに悔しい思いだった。彼は自分に言い聞かせた。そう簡単に行くはずがない。これで十分。さぁこれからだ・・と。
そして、彼の心にポッカリと開いた穴埋め問題は、桐原結菜の存在だ。
このレース桐原はスタートで遅れ、他の艇の引き波を1マークでかぶっていた。勝ち目はない。そんなレース展開だった。それなのに2マークで、強引に突っ込んでくるなんて無謀にも程がある。あれは完全に千晶を狙っていた。素人目にもそうとしか思えなかった。このレースを見て別の意味で桐原は怖い存在だと彼は確信した。
技術面では、質の高い練習の成果もあってか向上したように見える。レース前そしてレース中の精神的コンディションも、以前に比べたら落ち着いているようだった。レバーを持つ左手も震えてはいなかったし、シールド越しに見えた千晶の表情も違っていた。自分がトップで回れば事故レースにはならない、というイメージがそうさせたのかもしれない。
今日、千晶は二回走り。つまり全12レースの内もう一回の出走がある。次は8レースに出場する。
誠二はハゲの見知らぬオヤジと、二人で警備員に連れて行かれた。警備員から帰る際に、迎えにきて欲しいと伝言があった。誠二は連行されながら歳三に言った。
「ひまじぃ、千晶ちゃんに連絡ば取って、元気出すように言うとってくれ。俺はこのハゲを片付けたらすぐに戻るけん」
だが千晶に連絡を取ることなんてできない。もちろんアドバイスもできない。他のスポーツなら別だろうが、ボートレーサーはレース開催期間の六日間、宿舎に缶詰状態になる。携帯電話の持ち込みも禁止だ。つまりこの期間、選手は一人になる。一人で考え、一人で戦うことになる。もちろん他の選手と話すことはあるだろうが、雑談程度で手の内を晒すことはないだろう。コーチがついている訳ではないので、メンタルケアに於いても選手にとっては、過酷な六日間となる。
第9レース。千晶は6号艇だ。第1ターンマークに一番遠い6号艇はかなり不利である。うまくコース取りで内側のコースが取れればいいが、無理に行くと、助走距離が短くなり難しい戦いになる。もっとも今の千晶に内側のコースを取りに行く余裕もなければ、技術もない。ベテラン選手ならば技術と経験があるため、内側のコースを選択するかも知れない。しかし若手で6号艇となれば、しっかり助走が取れる6コース進入を選ぶのが通常である。ここはセオリーどおり、6コースでしっかりスタートを切って、チャンスを待つのがいい。
そういった面でもさっきの3レース。5号艇の桐原が3コースを奪取した行為は千晶を意識していたとしか思えない。そう歳三は感じていた。最初から勝負を捨てていたのではないかと疑念がよぎる。
そしてレースが始まった。千晶は予想どうりの6コース進入。スタート感はやはり抜群で、6艇の中でトップスタートだった。うまく行けば内5艇を抑え込んで、捲れる可能性もあったが、それは無理だった。果敢に攻めてはいったものの、やはり他の艇との接触を避けるように大きく外を回っただけで、1マークを回った時には5着6着争いだった。しかし、その後は直線のスピードを活かし他艇を追い上げ3着に食い込んだ。歳三は心の中でガッツポーズをした。今までの千晶のレースでは、あまり考えられなかったことだ。美鈴優喜くん、和也くん、そして歳三らの思いが伝わったのか、勝負に対する執着心が見受けられた。
彼は千晶ちゃんのレースを見届けた後、警備員室に誠二を迎えに行った。誠二はまだハゲに執拗に食いついていた。本当にしつこい奴だ。
「このハゲ、千晶ちゃんに謝れ!謝らんとその残り少ない毛髪を、全部むしり取ってやるぞ」
「ははっどうぞ。俺はさっきの第3レース、中原のおかげで儲かったけん、かつらでも買うわ!」
「コノヤロー」
歳三は、そんな誠二を引きずって警備員室を出た。今日は沢山の収穫があった。良いことも悪いことも。残り五日間。歳三は柄にもなく千晶の健闘を、三日月に祈りつつレース場を出て、宿泊するホテルへと向かった。
若松に足を運んで六日間が過ぎさった。歳三と誠二は、毎日レース場へ行き千晶のレースを見守った。
今は電車に乗り博多への帰路についているところだ。折尾駅から特急ソニックで約三十分程度の距離。
誠二はビールと焼酎を昼間から、かっ食らって深い眠りに落ちている。誠二の寝顔に無性に腹が立った歳三は、マジックで瞼にかわいい目を書いてやった。我ながら良い出来だ。と彼は自慢げだった。通路を歩く人の失笑をかって誠二も、さぞかし満足だろうと彼は心の中で笑った。
彼は新聞を広げた。今回の若松での新鋭レディースカップの全成績も載っている。千晶成績に目を通す。
初日 《3R 6着》《9R 3着》
2日目《1R 5着》《6R 5着》
3日目《5R 4着》
4日目《2R 2着》《7R 4着》
5日目《6R 4着》
最終日《1R 4着》《4R 5着》
格段に目を見張る成績ではない、むしろ惨敗だ。しかし収穫がなかった訳ではない。
着目すべきは、四日目の2着ではなく今節、初日の桐原に邪魔をされたレース以外は、6着を取っていないという点だ。負けレースでもしっかり走る。この言葉はよくアスリートから聞かれる言葉だ。諦めてはいけない。そういう意味が込められてのものだ。
しかし千晶の場合はちょっと違う。どんなレース展開でも、自分がもたもたすれば回りを巻き込んでしまう。事故レースにしないためには前の艇の引き波を浴びてでも、全力で走る事が、自分や他の選手を守るために必要だと感じたのだろう。それに彼らの思いを受けての勝負への執着心が、芽生えて良い傾向だと彼は思った。以前美鈴が話していた事を彼は思い出した。
(千晶さぁ和也くんとの練習の後、少し涙ぐんじゃって。みんなが真剣に自分のためにしてくれてる事が嬉しかったんだって)
千晶は今、楽しく仕事をしている。一番大事なことだ。ただ期待に応えようとするあまり、空回りしないようにしなければならない。彼はそんな千晶のことを考えながら車中を過ごし、気が付けば博多駅に到着していた。
彼は誠二を起こそうと思ったが、面倒臭いのとあまりのバカ面に、彼が書いた落書きがマッチしていたのでそのまま帰ることにした。
博多駅は終点なので、いずれ車掌に起こされるだろう。その時、車掌が起こしやすいように、誠二のおでこに
(博多駅に着いたら思い切りデコピンをして下さい)と書き加えておいた。
彼は改札口を出てタクシーを拾った。タクシーのドアが閉まった時、博多駅構内から「痛って、なんばするとか!」と聞こえたような気がして小さく笑っていた。
「お客さん、何かいいことでも、あったとですか?」
「いや、何でもないよ」
千晶同様、彼も今を楽しんで過ごしていた。