【小説】水上リフレクション8

第八章【レモンと手紙】

歳三と誠二はレース場で練習を見た後【華美】で軽く食事を取っていた。
「このなんとかグラタンは不味かばい」
「お前は何食っても分からないんだから贅沢言うな」
歳三は注文した不味いホットドックをかじりながら誠二に言った。。
その時、自動ドアが開き背中越しに声がした。
「あっ、ひまじぃに誠二さん!」
紛れもなく美鈴の甲高く大きな声だった。
「丁度、良かった。話があるんだ」
そう言って美鈴は俊三のとなりに座った。その横には、色は違うが美鈴と似たようなジャージを着た青年が立っていた。
「ほら、あんた自己紹介しなよ」
青年は美鈴を睨みかけたが、すぐさま歳三を見て
「はじめまして。千晶と同期の清水優喜です」
青年はしっかりとした口調で自己紹介をしてくれた。
「とっても嫌なんやけど、あたしとも同期のバカ男です」
「なんだとぉ~」
「まぁまぁ優喜くん、そっちに座りなさい」
歳三は誠二の横を手の平で指し着座を促した。
「美鈴からいろいろ聞いてます。千晶に協力してくれてる方達ですよね」
「まぁそうゆう事になるかな」
「俺はなんかいい匂いがする、美鈴ちゃんの横がよか~」
美鈴はその言葉にすぐ反応し、誠二を鋭く睨みつけた。
誠二はあのビンタの記憶が蘇ったのか、(しまった)という顔をを見せて両手で顔面をカバーした。

「ところで、ひまじぃ。明日にでも千晶と話してくれないかな。次回のレースも近いし」
「あぁそのつもりで、さっき千晶ちゃんと約束したよ。後で電話をすると言ってた」
「あぁそうなんや。千晶と会ったんやね」
そこへ復活した誠二が
「そういえば、さっき桐原結菜を見たばい。練習に来ってたんやろか?しかし、噂に違わず、かわいい子やったな」
誠二は上を向き、さっき桐原結菜に会った光景を思い出すしている様子だった。
「えっ桐原が来てたの?」
「間違いなかばい。このスーパー双眼鏡で確認したけん」
 そして優喜が言った。
「そういえば確か明後日から開催される福岡の一般競争にメンバーとして入っていたな」
美鈴は何故か不安そうな眼差しで、ミックスジュースを飲んでいた。歳三はそんな美鈴に何かあるのか聞いてみた。
「いや、桐原ってさぁ、あたし達と同期なんだけど、なんだか千晶をかなり敵視してるんよね。この前もレースで千晶と走ったんやけど、1・2着争いならまだしも最後尾争いでわざとらしく艇をぶつけてきたりしてね。テレビで見てて、なんだかヒヤヒヤしたのを覚えてる。でもあたしの考えすぎかなって思う部分もあるんやけど・・・少し気になって」
「そげん心配せんで大丈夫ばい。ただ見かけたっていうだけやけん。なんの問題もなか」
「もし、なんかあったら俺が千晶を守ってやるけん!」
と胸を張って優喜君は言った。
「そうやね。あたしの考えすぎか。ただ、あんたみたいな、へなちょこ男に守られんでもあたしがおるけんね」
確かに後を追うように行ったのは気になるが、ただの偶然と思う方が理にかなっている。その疑問を解消するべく、歳三は美鈴に聞いた。
「何故そこまで心配するんだい。何か違う不安でもあるのかい?」
「うん・・・実はね・・・」
 美鈴は不安そうにそう言うと桐原結菜について話し始めた。
「やまと学校時代にね、桐原結菜は進藤和也に言い寄ってきた女をカッターで切りつけた事件があったの。公にはならず事なきを得たんだけど、その後も教官にばれない程度に、教習中に何度も危険行為を犯していた。結局その子はあまりの恐怖に学校を退校したんだ。嫉妬に狂うと悪魔のような女になるけん、あたしも怖かったもん」
「そんな事があったのか。でも千晶ちゃんには関係ないんじゃないか」
「そうだといいんだけど・・・」
その後、美鈴と優喜は軽い食事をとって皆で不味いコーヒーを飲みながら様々な話題で盛り上がった。
「あっもうこんな時間。部屋が散らかっとうけん、千晶が帰って来る前に片付けなきゃ。千晶はいつも何かにつまずくけん危なっかしくて」
美鈴は大きなバックを肩にかけ家に帰って行った。優喜は自宅で自分のレース映像を見て、イメージトレーニングをするらしい。
そして優喜は帰り際に
「千晶と美鈴をよろしくお願いします」
と歳三と誠二に挨拶した。二人は大きく頷き優喜を見送った。
 
そして翌日の朝、美鈴から歳三に連絡があった。
「今日十時に【華美】でどう?」
「あぁ、構わないよ」
「今から千晶をたたき起こして十時に行くように言うね」
「美鈴ちゃんも一緒かい?」
「いや、あたしは来週のレースに向け今日から滋賀。千晶をよろしくね」
 歳三は支度をして早めに家を出た。【華美】に着いたのは九時をちょっと回ったところだった。朝飯がてら、不味い予感がしながらも和風サンドイッチとアイスコーヒーを注文した。
料理が届くまでの時間を利用して歳三は以前、仕事に関して書き溜めたノートに目を通し千晶が来るのを待った。
しばらくして注文の品が届くと歳三は不味いアイスコーヒーを飲みながらサンドイッチを口にした。歳三はその瞬間、不思議な感覚に襲われた。美味しかった訳ではない。不味かった訳でもない。それは歳三が作るサンドイッチと同じ懐かしい味がしたからだ。

十時を回った頃、千晶がやってきた。
「ごめん、遅くなって」
「別に構わないよ。それより何か食べるかい?」
「いや、さっき美鈴に起こされてフレンチトーストを無理やり食べさせられたから、オレンジジュースでも飲もうかな」
歳三はさっそく千晶に聞いてみた。
「レース直前のスタート前はどんな感じだい」
かなり漠然とした質問だと分かってはいたが、歳三はとりあえずは話のとっかかりが欲しかった。
「どんな感じって、どうやって走ろうかなとか?」
「そうか。あんまり何も考えてないってことかな」
「そんなんじゃないけど。水辺の鳥がかわいいなって思ったり、ナイターレースなんかは月が綺麗だなとか」
千晶らしいと言えばそれまでだが、プロのレーサーとあろう者がこんなことでは先が思いやられる。歳三はそう思った。千晶の発言は子供じみた人を食ったような性質があった。たまにバカにしているのだろうかと疑うこともあるくらいだった。
「あとは自分のせいで事故レースにしないようにするとか。私、へたくそだからね」
「でも勝ちたいとは思わないのかい」
「そりゃあ勝ちたいけど、そんなにうまくはいかないよ」
「それもそうだな」
歳三の考えはまずは千晶の発想と考え方を一から変える必要がある・・そう思っていた。そしてなるべく分かりやすく説明するように歳三は話を始めた。
「あるマラソンランナーが言っていたんだが、一人で走ってもタイムは伸びない。誰かライバルがいるからこそタイムが伸びる。タイムを伸ばすことを目標にすることで、昨日よりも早く走れた自分に会いたいのだと」
「うん。なんとなくは分かるけど」
「さっき言ってたけど回りの人に迷惑をかけない走り、転覆や事故レースのことを考えているんだろうけど。確かにそうなれば選手にもそしてファンをも失望させてしまう。じゃあ、どうしたらいいと思う?」
千晶は首を傾げた。
「千晶ちゃんが恐れているのは、まずは事故だろ。自分自身でも相手に対しても不安が付きまとう。だけど千晶ちゃんはプロのレーサだろ」
「一応・・・」
千晶は自信なさげにそう言った。そんな千晶を見て歳三は優しく語りかけた。
「千晶ちゃんはマイナス思考の傾向が強い。まずは良いイメージを植え付けること。そして少しでもプラス思考に近づけることが大事だ」
千晶はキョトンした表情ながらも視線は真っ直ぐに歳三に向けられていた。そして歳三は自論を展開した。
「極論を言うよ。目を瞑って聞いてみて」
千晶はゆっくりと目を閉じた。
「レースが始まった。千晶ちゃんは1号艇でインコースだ。スタート十秒前。今スタート。その時千晶ちゃんはトップスタートだ。他の選手は寄せ付けていない。一番早くターンマークを回る。それも最高のモンキーターンで。1マークを回り終えた時にはトップでバックストレッチだ」
千晶はまだ、目を瞑ったままだ。少し間をおいて
「千晶ちゃん、目を開けてみて。どうだい事故レースになったかい」
千晶は少し考えて言った。
「多分、大丈夫そう」
「もしかしたら外側の艇で何かアクシデントが起こるかもしれないがそれは千晶ちゃんのせいじゃない。つまり、千晶ちゃんが自信を持って走れば何も問題ないということだ。千晶ちゃんが全力を出すことで素晴らしいレースになるはずだ」
「だけど・・・」
千晶はまだ納得していない様子で目線を下へ向けた。歳三は続けた。
「どのレースに出ても他は格上だ。千晶ちゃんが全力を出しても転覆するような奴らじゃない。逆に何かを恐れてもたもたしている方が危険だ。千晶ちゃんの実力なら相手が軽く避けてくれるよ。だから何も心配する必要はない」
千晶は少しだけ上を向き目の前のオレンジジュースをストローでかき混ぜた。
「なんとなくは分かるけど。そんなターンができないから困ってるんだけどな」
千晶の言ってることは正解だった。そんなことは歳三も分かっていた。ターンの技術に関しては美鈴や清水優喜、進藤和也といった心強い味方がいる。後は練習して体に叩きこむしかない。
「俺が今言ったことを頭でイメージはできたかい?」
「うん、それは出来た」
「じゃあ出来ることからやるんだ。レース前にそのイメージを何度も繰り返すんだ。そして日常でも常にイメージして過ごすんだ。そうすれば必ず・・・」
歳三が喋り終える前に千晶が口を挟んできた。
「そんなんでどうにかなる?」
歳三は千晶の顔を笑顔で見つめながら少し間を開けて言った。
「もう一回目を瞑ってごらん」
千晶は素直すぎる程、すぐに目を瞑った。この素直さはいい意味で武器になるかもしれない。だがそれだけではただの馬鹿正直だ。歳三はもうひとつ武器を与えることにした。人間のイメージする力は本能に直結することを、理解させるために次の例題を出した。
「今から言うことを強烈にイメージするんだ。例えば今、俺の手の平にレモンの輪切り数枚と梅干が数個ある。これを今から千晶ちゃんの口の中に放り込む。どうだい」
「どうだいって、酸っぱいよ」
「そうじゃない。口の中はどうなってる」
千晶は、はっした顔で俺を見つめた。
「これは漫画《グラップラー刃牙》に描かれていたものだ」
「グラップラー・・」千晶は不思議そうに歳三を見つめた。
「まぁそこはいい」
歳三はおでこを少し掻きながら続けた。
「強烈なイメージを描けば、口の中は唾液でいっぱいになるはずだ。ここにはレモンもなければ梅干もない。しかし脳はその強烈な酸味を、今までの経験値と照らし合わせて、唾液を作り出している。専門家ではないので詳しくは分からいが、これは反射的なものではなく、イメージする力だと俺は思っている」
これがイメージトレーニングの威力だ。必ず千晶の最大の武器になるはずだ。千晶の素直さを生かすには、今はこれくらいしかない。と歳三は思っていた。
「繰り返しレースのイメージを頭の中で描いていれば何か違った景色が見えるかもしれないよ」
「イメージする力か・・」
千晶は少し考えるようにぼそっとそう呟いた。
 

それから歳三と千晶は雑談を含めて沢山の話をした。千晶の性格、考え方など収穫は山ほどあった。そして千晶の生い立ちに関することなども。歳三が聞いた訳ではないが話の流れで聞くことになった。
 千晶は東京で生まれた。千晶が生まれてすぐに両親は離婚。そして、最愛の母は千晶が小学校三年生の時に心筋梗塞で亡くなった。もともと心臓に疾患があり、いつ何が起きてもおかしくない状態だった。母親が亡くなった後に千晶宛ての手紙を見つけたらしいが、その時は母の死を受け入れられずに、読む気も起らなかったと千晶はそう話した。
 その後は親戚と名乗るおじさんに、施設へ入れてもらったが、そのおじさんはそれ以来、姿を見せなかった。親戚ならば引き取ってやればいい、そう歳三は思った。  
 そして高校を卒業してやまと学校に入学したということだった。
「手紙にはお父さんの事と、私に伝えたなきゃいけない重大なことが書いてあった」
「でもどうして手紙だったんだい。口で伝えてれば良かったような気もするが」
「それは小さな私には文字でないと、理解できない事だったから」
 

その時、入口のドアが開いた。入ってきたのは美鈴だった。いくらお客さんがいないとはいえ、自分の家のように大きな声で呼びかける美鈴の声が、少し重たい空気を掻き消すと同時に柔らかな雰囲気が戻った。
「どうしたの、美鈴?」千晶は美鈴を見ながら尋ねた。
「出発前に二人の顔を見とこうと思って」
「そうなんだ。今度のレースも頑張ってね」
「バリっと賞金稼いで二人に奢ちゃるけん。期待しとって」
「ありがとう。期待してるよ」
歳三は美鈴に激励を込めて気の早いお礼を言った。
「じゃあ、行ってくるね」
そう言って美鈴が振りかえった瞬間、肩から下げていた大きなスポーツバックがテーブルに当たり、歳三が注文したアイスコーヒーが床へと落下し、グラスが勢いよく割れた。
「あっゴメン。片付けなきゃ」
「大丈夫だよ。私がやっとくから。早く行って」
千晶は割れたグラスを片付け始めたが
「痛っ」と小さな叫び声をあげた。
注意はしていたのだろうが、割れたグラスの鋭利な部分が千晶の指を赤く染めていた。しかし見た感じ中指の腹に少し刺さった程度で心配する程でもなさそうだった。
ただ、何故だか千晶は何かに怯えるように震えていた。
「大丈夫かい」
そう歳三が言った次の瞬間、千晶は俺の手首を掴んで、屈んだまま思いもよらない言葉を口にした。
「私、死んじゃうの?」
 千晶は顔面蒼白で歳三に震えながら間違いなくそう言った。歳三はこの状況と、千晶の言葉とのアンバランスさに異様なものを感じ言葉が出なくなってしまっていた。
そして駆け寄ってきた美鈴がすぐさま、千晶を抱きしめた。
「大丈夫よ。落ち着いて大した怪我じゃないから」
「本当?本当に大丈夫?」
「大丈夫、あたしがいるから」
美鈴はすぐさまテーブルにあったおしぼりで、千晶の指を覆い止血をした。
歳三は何が起きたのかさっぱり理解できなかった。確かに女性だから血を見て少しくらい怯えるのは普通だが、千晶のそれはあまりにも異質だった。
「本当に大丈夫よ。今回のレースは欠場するけん。今からあたしの家に行こう」
少し平静を取り戻した歳三は二人の間に割って入るように言った。
「たったこのくらいの事でそこまでしなくて大丈夫だよ。俺が様子を見てちゃんと送っていくから。早く仕事に行っておいで」
その言葉を聞いた美鈴は強烈な眼差しで歳三を怒鳴りつけた。
「ひまじぃは黙ってて!」
歳三は度胆を抜かれた。この表現が正しいのかは分からない。ただそれくらいの衝撃で歳三は言い返す言葉も出なければ身動きも出来きなかった。美鈴はまだ少し震える千晶を、抱えるように立ち上がり店を出ようとした。その前に美鈴は途中で立ち止まり、振り返らずに俺に言った。
「ゴメン。大きな声を出したりして。また連絡するから」
「分かった。連絡を待ってるよ」
 

歳三にはこの言葉しか出てこなかった。美鈴は小さく頷き店を出て行った。二人が去った後、歳三は少しだけ血のついたグラスの破片を片付けながら様々な思考を巡らせていた。しかし、その疑問はもちろん解消されることはなかった。


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