【小説】水上リフレクション2
第二章 【サンドイッチと紙屑】
先頭で2号艇ゴールイン、続いて5号艇ゴールイン、3号艇、6号艇、4号艇ゴールイン、最後尾1号艇ゴールイン。以上、全艇ゴールインしました。
瀬利歳三は罵声と怒号の中、夕暮れの水上を中原千晶がピットへ戻っていく寂しげな背中を見つめていた。
「おい、ひまじぃ」
後ろから大きな声が聞こえた。ボートレース仲間の永松誠二だった。
誠二は白髪交じりの坊主頭で小太り。腹は七福神の布袋様のようで典型的なオヤジ体型をしてる。
「また、お前か。恥ずかしいからそのあだ名で呼ぶな」
「暇なおっさんやから、ひまじぃ。なんかおかしいか」
永松誠二は瀬利歳三とは年の近い親友でもあり悪友でもありそして飲み仲間という間柄だ。二人が出会ったのは一年前、この福岡のレース場で。
その日は外が雨だったので歳三は二階の観覧席にいた。ビール片手に串カツを食べながら、優雅に観戦していた。ただ、横に座るのはボソボソと独り言をつぶやきながら、鬼の形相で新聞を見ている男だった。一見まじめそうにも見えるおっさんだと歳三は思ったが、よく見るとこの男は以前、歳三の財布を拾ってくれた親切なおっさんだった。お礼をを言う前に立ち去った奇妙な男だった。歳三はレースをスポーツとして見てるだけなので舟券は購入しなかった。横の男も舟券を購入しに行ってる気配はなかった。
そして7レースは百二十倍の配当がついた。レースの確定ランプが灯るとその男は勢いよく立ち上がり
「万舟、取ったばい!」と大きな声で叫びだし、周りの人たちに握手を求めていた。当然、横にいる歳三にも右手を差し出してきた。おそらく前売りの舟券でも買ってこのレースだけに賭けていたのだろうと歳三は推測した。そして間髪入れずに、いきなり見ず知らずの歳三を飲みに誘ってきたのだ。なんて大胆で怪しい奴だと歳三は思った。もちろん最初は断ったが徐々に男の熱気のようなものに押されて半分、嫌々ながらだったが、歳三は飲みに行くことにした。
しかし世の中は広い。この男は究極の人見知りしない男だと歳三は思った。
それからレース場で出くわす度に誠二は歳三に話しかけそしていつのまにか二人は意気投合してしまっていた。そんなオーラが誠二にはあった。ただ悪い奴ではないと歳三は思っていた。誠二は何かと歳三の心配をし歳三が風邪をひいた時は家に押しかけてきて、何故だか冷麺を作ってくれたり、洗濯済みの下着をさらに洗濯したり。意味の分からない行動だったが、歳三にとっては一人で唸っているよりはマシだった。
そんな永松が今日も歳三の隣にいた。
「ひまじぃ、また変なもん挟んだサンドイッチとコーヒーか?」
俺は自家製のサンドイッチをパクつきながら、誠二の方を無言でを見た。誠二は俺を見つめていつものように質問を続けた。
「また今日も見とうだけか?」
「悪いか。俺はボートレースをスポーツとして見てるから、お金は賭けないんだよ。お前も知ってるだろ」
「知っとうよ」
「じゃあ毎回聞くな」
知っていて同じことを何回も聞いてくる。しかしそれが二人の挨拶みたいなもんだった。そして誠二は煙草をふかしながら、ぼそっとつぶやいた。
「今日もまた負けたばい。全然、当たらんちゃもんね」
それはお前がヘンテコな双眼鏡で女子選手の尻ばっかり見てるからだろ!と歳三は言いかけたがやめた。誠二は怒ったらすぐ、アイアンクローをしてくる破天荒な奴だったからだ。アイアンクローはプロレスの技で片手で顔面をつかみコメカミを親指と中指ではさむ。その凄まじい痛さが歳三の頭を過ぎっていた。
そして誠二はまたヘンテコな双眼鏡で夕暮れのピットを見ていた。
「今日も千晶ちゃんダメやったねぇ」
「そうだな。1号艇でインコースを取ったまでは良かったけどな」
「ばってん1号艇インコースで負けとったらいかんばい」
歳三はレースリプレイを正面スクリーンで確認していた。中原千晶のスタートタイミングは抜群に良かった。しかし第1マークのターンでのミスが敗因だった。あそこでインモンキー(ターンするときの技の名称)が上手かったら捲られていなかっただろうと、歳三は少し落胆していた。あの瞬間にレースの勝敗は決していた。
「そうやな。エンジンは超抜(超抜群のエンジン)で噴いとったし1号艇やから今度こそはいけると思ったんやけどな」
誠二は悲しげな顔で水面を見ていた。特に慰めるつもりはなかったが、歳三は誠二の肩をポンと叩いた。
「まぁ仕方ないさ。次はやってくれるよ」
ボートレースはスタートと1マークのターンでほぼ勝負が決してしまう。後続艇になるとその後、抜くのは難しい。なぜなら後続艇は必ず前の艇の引き波を浴びてしまいスピードが殺されるためである。よって選手はどれだけ早くスタートを切るか。1マークをどう捌くか。ここが勝負のカギを握る。したがって1マークを巧みに回るターンの技術が必要となる。勝率を高めるために選手が磨き上げるのがモンキーターンと呼ばれる技術である。その他にもエンジンやプロペラといった機械的要素もあるが、このモンキーターンを磨くことが勝利への近道であることは間違いない。
「さぁ飲みに行こか。今日はビールに焼酎に日本酒やな。〆はウイスキーかな」
誠二はいつものように歳三を気軽に誘った。
「それは、いいけどお前、金持ってんのか」
「持っとうばい」
「いくら」
誠二はおもむろにズボンのポケットから、ボロボロの財布と訳の分からない汚い紙屑を出した。財布の方はしっかり持っていたのだが、紙屑はひらひらと地面へ落下した。それを見て歳三は怪訝な表情で言った。
「おい、ゴミが落ちたぞ。清掃のおばちゃんが掃除してくれてんだから汚すな」
誠二は慌てた様子でゴミを拾い上げポケットへと戻した。誠二にしては謙虚な行動だった。いつもハズレ舟券を放り投げる迷惑な男だったからだ。
「バ~カ。これは次の開催レースの予想たい」
信頼できる予想屋から仕入れたものらしい。これで一発当ててジャイアント馬場のフィギュアを買うと誠二は言った。一発当てるというなら、もっと時計とか大人のアイテムを買うという発想は、この男にはないらしい。やっぱりアホだと歳三は頭を抱えた。そして歳三は呆れた様子で
「いくら持ってんだ」
「三百二十円やな」
誠二は何の躊躇いもなく、そして偉そうに言い放った。今年で六十一歳のおっさんの額ではないと歳三はまた頭を抱えた。三百二十円じゃ小学生にも負ける。カエル並み脳味みそだなと言いたいが、ここでアイアンクローの餌食はゴメンだと歳三は怯んでしまった。
「その小学一年生並みのこずかいでどこに行く気だ」
「焼酎、飲みたかね」
誠二は年甲斐もなく猫なで声で、歳三に懇願の眼差しを向けていた。いつものパターンだった。そして歳三は言った。
「今日は奢らねえぞ。千晶ちゃんが勝ったならまだしも、今日はだめだね。缶ビールでも買って家でクソして寝ろ」
二人は大の中原千晶ファンだった。といっても誠二はその日、勝った選手が好きになるお調子者。しかし中原千晶に限っては負けてもずっと応援してるようだった。
「そげなこと言わんで。神様、仏様、歳三様」
いつものフレーズだ。歳三はもうその声は聞き飽きていた。
そして誠二の懇願は続いた。結構しつこい性格は分かっていた。
「よかやんか。今日は本当にお前と一杯飲みたかったい」
これ以上、ここで言い争いしても仕方がないと誠二を睨みつけながら歳三は腹をくくった。
「お前に奢る気はさらさらないが、そこまで言うなら貸しにしといてやる」
誠二はバカな奴だが、金を返さなかったことは一度もない。それにレースの軍資金を借りるようなことは絶対しなかった。バカだが人間味があっていい奴だと歳三は思っていた。そんなやりとりの後、二人はレース場を出て飲みに行くことにした。
季節は十月。暦の上ではもう秋だ。だがここ福岡の街はまだ暑い。夜風はだいぶ涼しくなったが、昼間はまだ真夏だ。小さい頃は母親に長袖を着せられていたような気がすると歳三は昔を思い出していた。地球温暖化のせいだろうか。歳三は四季がなくなっていることに少し寂しさを感じていた。
そして二人はいつの間にか俺たちは天神の街を歩いていた。
「おい、誠二。いくらレース場から近いからって天神で飲むのはやめようぜ」
「たまには、いいやんか」
「俺が金を貸すんだから、俺についてくるのが普通だろ」
「今日はさ、この星空が天神の街に俺ば誘うったい」
誠二は空を見上げながらロマンティク風にその言葉を発した。生粋の博多弁がその雰囲気に調和していない。
ここ中央区天神には飲食店をはじめ居酒屋にしても、おしゃれな店が多い。俺が行きたがってるのは中洲だ。天神からは程近く歩いてでも行ける。
博多駅周辺や天神にはバカでかいビルが立ち並んでいる。それとは少し対照的に中洲には昔ながらの飲み屋や、料亭などがあり情緒あふれる風情を感じることができる。また高級クラブなども多数あり歓楽街としては有名な場所だ。天神が若者の街ならば中洲は、いわゆる大人の街だ。屋台が軒を連ねるのもこの一角だ。飲んだ後の〆の豚骨ラーメンは最高だ。
「今日は中洲に行こう。焼き鳥のうまい店に連れてくからよ」
「嫌やね。今日は天神で飲むって決めとったい。たまにはお洒落な居酒屋に行きたいとは思わんね。これやから年寄は困るとよね」
こいつに年寄り扱いされると情けなくなると歳三はため息をついた。そんな誠二の口調と態度を見て歳三は無性に腹が立ってた。その感情が強い言葉
口調となってしまった。
「お前さぁそれが人から金借りて飲みに行く態度か。そして勝手に決めんなよ。お前はバカなんだから、俺の言うとおりついて来りぁいいんだよ」
その時、誠二の右手がおもむろに広がったことに歳三は気付いた。
(やばい!)そう思った時には遅かった。その開いた右掌が歳三のこめかみを挟むように顔全体を包んだ。そして間もなくいつもの激痛が頭に走る。
歳三は公衆の面前でまたしてもアイアンクローを食らってしまった。誠二は歳三がギブアップするまで絶対に離さない。しかし、今日は耐えてやる。そう歳三が思った瞬間、誠二の手から力が抜け歳三の顔面の激痛も徐々に緩和していくのを感じた。
「あれっ」
そして右掌が歳三の顔から離れ、覆いかぶさった視界がクリアになると誠二の顔が見えてきた。誠二は少し離れた場所を見てニヤニヤしている。
「おい、どうしたんだ」
「ほら、あっちば見てん。女の子二人が居酒屋の前で楽しそにしとるばい」
振り向くとその先には二十代とおぼしき女性がいた。一人は茶髪でジーンズの子、もう一人は白いロングスカートが似合う女性だった。少し距離があったので顔は確認できないが、雰囲気はかわいらしさを醸し出している。
それを見ていた誠二の目が急に大きく見開いた。
「茶髪の子がもう一人の胸を触ったばい」
「えっ」
六十二歳を迎えた歳三だが些細なその光景に胸がドキッとした。不思議な感覚だった。歳三は若い子にはかなわないなと男の本能を感じた。やがて一人がもう一人の女性の手を引っ張って、その居酒屋の店内へと消えていった
「よし、ひまじぃ。あの店に行くばい」
「おいおい、ちょっと待てよ」
歳三は否応なく誠二に肩を抱かれ引きずられるようにして
その居酒屋の暖簾をくぐった。