どこでも行って誰とでも会った
晴れだか雨だかもう覚えていないのだが、風邪の症状は昨日より重く、終始不愉快な一日だったことは覚えている。
仕事は自宅勤務にするが、Skype会議でふだん以上に喋り倒し、いよいよ声が出なくなる。早めのパブロンが、今回はあまり効果がない。
夜、早々に床に臥す。煩わしい風邪の症状を一時でも忘れるにはどうしたらよいだろう、そうだ、ゾンビだ、という訳で、Amazon Primeで映画『アイアムアヒーロー』を観る。序盤のジェットコースターのような展開にハラハラし、ハラハラし疲れてぐったりする。主人公たちがタクシーの運転手をやっつけたあたりで視聴を中断する。
このように市民は生きる望みを失い、すべてをあきらめるに至ったのだが、こんな状態が続いた三、四週間には、意外な影響が現れた。すなわち、人びとが大胆で危険を顧みないようになったのだ。かれらはもはや互いを避けたり、家のなかに引きこもることはなく、どこでも好きな場所にでかけ、他人とも親しく付き合うようになった。こんな会話が交わされていた。「お元気ですか、なんて聞かないし、ぼくが元気かどうかも言わないよ。ぼくらはみんなどうせ死ぬんだから、誰が病気で誰が健康かなんてどうでもいいことだろう。」こうして人びとは向こうみずに駆けまわり、どこでも行って誰とでも会った。
市民が外で会うのを避けなくなると、驚くほど多くの人が教会に押し寄せるようになった。彼らはもう、近くに座る人や、遠くに座る人をいちいち気にしなくなったし、どんな悪臭が漂っていても平気で、周りの人びとの体調をじろじろ観察することもなかった。自分も含め、目に入る人間はすべて動く屍だと思い、なにひとつ気をつけずに教会に出かけて集会を開いた。ここで果たすべき義務に比べれば、自分の命など大事ではないかのようだった。彼らは熱心に教会に通い、一途に説教に耳を傾けていたが、これを見れば、今日こそ最後かもしれないと思いながら毎日教会に通っていれば、あらゆる人が神に祈ることにどれほど高い価値を見出すようになるか、実にはっきりと分かるはずである。
ダニエル・デフォー(著),武田将明(訳)『ペストの記憶』研究者,p.224
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