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わたしの体から葉っぱが出て、手から根が生えて

1.

 友人は突然、木になりたいと言い出した。下鴨神社の糺ノ森を散歩しているときだった。縄文時代から存在する原生林で、樹齢200年から600年の木がおよそ600本あると言われている。

 ちょうどそのとき、一羽のコゲラがムクノキの木を垂直に駆け上り、くちばしで木の幹をつつこうとしていた。

 ほら、あそこの木みたいに。私はそのムクノキを指さした。木ってさ、体中を鳥につつかれたりするよ。痛そうじゃない?逃げられないし。大変じゃないかな、と答えた。

 相手は声もなく笑った。私は、自分が見当違いな回答をしたことに気付いた。だがそのまま黙っていた。木立の間を抜けるそよ風が足下の木陰を揺らし、さざ波のようにざわめいた。その後は憶えいてない。 新緑の季節だった。十年以上前のこと。


2.

 上野の国立博物館にある全球型映像施設「シアター36○」を初めて体験する。球体ドームの内側が全てスクリーンになっており、観客はドームの中で360度の音と映像に包まれる。

 上映中の作品は「海の食物連鎖 ―太陽からクロマグロをつなぐエネルギーの流れ―」だった。海中のプランクトンたちがイワシに海水ごと飲み込まれる場面がある。無数の細かい歯が並ぶイワシの口腔内が巨大スクリーン全体にズームアップした瞬間、私は本気でイワシに「喰われる……!」と恐怖し、そばにいた妻の腕を掴んだ。

 自分が被食者の立場に回る恐怖。人間がイワシに喰われることはないかもしれないが、他の生物の餌食になる可能性はゼロではない。例えば、三毛別羆事件。Wikipedia記事に登場する、”このヒグマは人間の肉の味を覚えた”の一文の破壊力……。


3.

 ライオンとヒョウに喰われた松島トモ子、熊に腕やわきの下の肉を喰われたシンシア・デュセル=ベーコン、ライオンに左手を噛まれたデヴィット・リヴィングストン。『いのちへの礼儀』によると、彼らは動物に食べられる時、痛みを感じる前に気を失った、あるいはまったく痛みを感じなかったという。

 同書では、下向性疼痛抑制系がフルに活性化したのではないか、という仮説について紹介している。下向性疼痛抑制系は身体の仕組みで、神経から痛覚の信号が脳に届く水際で、セルトニンやノルアドレナリンを出して痛みをシャットダウンする。生命の危機に瀕するような特殊な状況下で特に強く働くらしい(詳細はこちらのP.3参照)。

 

4.

 宮沢賢治のいくつかの童話には、捕食者と被食者の両方の視点がある。よだかの星、なめとこ山の熊、注文の多い料理店……。中でも、異様な印象を残すのが「蜘蛛となめくじと狸」。なめくじに騙され、喰われてしまうとかげの最期。

「なめくぢさん。おなかが何だか熱くなりましたよ。」ととかげは心配して云ひました。

「ハッハハ。なあにそれほどぢゃありません。 ハッハハ。」となめくぢはやはりもがもが答へました。

「なめくぢさん。からだが半分とけたやうですよ。もうよして下さい。」ととかげは泣き声を出しました。

「 ハッハハ。なあにそれほど ぢゃありません。ほんのも少しです。も一分五厘ですよ。ハッハハ。」となめくぢが云ひました。

 それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。丁度心臓が溶けたのです。

宮沢賢治『蜘蛛となめくぢと狸』

 

5.

 ハン・ガンの小説『菜食主義者』に登場する女性は、夢をきっかけに肉食を忌避するようになる。その夢の描写が鮮烈な印象を与える。残酷な描写がある訳ではないが、嗜虐的な匂いが漂い、穢れの感覚を催す。

暗い森だった。誰もいなかったわ。鋭くとがった葉の木々をかき分けて進んだから、わたしの顔や腕には無数の傷ができた。一緒に行動していた人たちがいたようだったけれど、私はひとりで道に迷ったみたいだった。怖かった。寒かった。凍りついた渓谷をひとつ渡ると、納屋のような明るい建物を見つけたの。むしろのようなものをめくり上げて中に入った瞬間、見たの。数百個の、大きくまっ赤な肉の塊が長い竹の棒につるされているのを。ある塊はまだ乾いていないのか、赤い血が滴り落ちていた。果てしなく続く肉の塊をかき分けて進んだけれど、反対側の出口は見つからなかった。私の着ていた白い服が、血に染まっていたわ。

<中略>

でも、私は怖かったの。わたしの服にはまだ血がついていた。誰にも見つからないよう、木影に体を隠してうずくまっていたの。わたしの手に血がついていた。わたしの口にも。あの納屋で、わたしは落ちていた肉の塊を拾って食べたのよ。わたしの歯ぐきと上あごにくにゃっとやわらかい生肉をこすって赤い血を塗ったから。納屋の床、血だまりに映ったわたしの眼が光っていたわ。

ハン・ガン(著),きむ ふな(訳)『菜食主義者』CUON,p.21

 彼女は次第に肉食以外の食事も拒むようになる。栄養失調で痩せ細り、拒食症患者として精神病院に入院する。入院3か月目、病院を抜け出し、森の中で逆立ちする彼女の姿が発見される。彼女は、見舞いに来た姉にその訳を説明をする。

夢の中でね、お姉さん、わたしが逆立ちをしたら、わたしの体から葉っぱが出て、手から根が生えて……土の中に根を下ろしたの。果てしなく、果てしなく……股から花が咲こうとしたので脚を広げたら、ぱっと広げたら……。

同,p.236

  彼女は森の中で、文字通り木になろうとしていた。

 

6.

 心理学者ハロルド・ハーツォグは、著書『ぼくらはそれでも肉を食う 人と動物の奇妙な関係』において、ある食べ物を美味しいと思うか気持ち悪いと思うか、その決定に大きな影響を与えるのは「文化」であると述べている。

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校の進化人類学者ダニエル・フェスラーらは、78の文化圏を対象にタブーとされる食品を調査。その結果、問題なく食べられる肉なのに、野菜や果実、穀物より6倍、食べるのを禁止されているケースが多いことが判明した。

 なぜ、植物性食品より肉のほうがタブーにされやすいのか。人類学者たちはこの手の質問が好きだが、ハロルド曰く、色々な憶測はあってもしっかりしたデータはほとんどない。


7.

 食物心理学者のポール・ロジンは、肉食に心理的な抵抗を感じるのは、動物の肉が人間の死を想起させるからではないかと主張する。

「人は動物と同じように、食べ、排泄し、性交しなくてはならない。それぞれの文化は、こうした行動を適切に行うやり方を定めている。——たとえばほとんどの動物を食べてはいけないものに指定し、あらゆる動物とほとんどの人間をセックスの相手にしてはいけないと定めている。さらに、わたしたち人間は肉体を包む弱い外皮しか持たず、それが破れると、血ややわらかい内臓といった、動物と同じものが見えてしまう。人間の体も、動物の体と同じく、死ぬ(ということを自覚せざるをえなくなる)」。

ハロルド ハーツォグ (著), 山形 浩生 (訳), 守岡 桜 (訳), 森本 正史 (訳)『ぼくらはそれでも肉を食う 人と動物の奇妙な関係』柏書房,p.242

 死を怖れる気持ちが肉食への嫌悪感を醸成するのであれば、菜食主義に転向したくなる気持ちも理解できなくはない。植物の”死体”は、動物のそれほど人間の死を想起せずに済む。

 しかし、菜食主義を極めたとして、自らが植物になりたいとまで思うようになるだろうか。菜食主義と植物化への願望の間には、ある種の飛躍があるように感じる。


8.

 植物も他の命の犠牲の上で繁栄している。人間や動物たちが肉を喰らうのとは別のやり方で。その命の奪い合いもまた過酷な様相を呈する。私なら植物に憧れたりはしない。憧れるというより、畏怖すべき対象。

私は森の活動を、森が草々や灌木とくりひろげる大地をめぐる狡猾な格闘を目にした。空を飛ぶ数十億個の種子が生長していきながら 草々を殺し、なんの敵意ももたない低木の茂みを切り裂いていく。勝利した実生の数百万の若芽は、互いに格闘しあうことになる。そして生き残ったものだけが、力の等しいもの同士で同盟関係を結び、陽生植物の若い森の一つの天蓋のような覆いを形成していく。この陽生植物の森に覆われた徒刑地のような薄暗いところで、トウヒとブナが生育する。

 しかし、陽生植物にも老いぼれるときがくる。すると、その覆いの下から光に向かってどっしりとしたトウヒが突き出ていき、ハンノキや白樺を処刑する。このように、万人の万人に対する永遠の闘いの中で森は生きている。物事が見えない者だけが、木々や草々の王国に善の世界を思い描いたりするのである。

ワシーリー・グロスマン (著), 齋藤 紘一 (翻訳)『人生と運命 2 』みすず書房,p.137-138


9.

 友人は最近、病により帰らぬ人となった。長らく音信不通だったが、共通の知人から訃報の連絡があった。

遺骨は、都内のとある霊園の染井吉野の根本に埋葬されたらしい。樹木葬である。故人の遺志だったとか。

 その霊園の樹木葬は他の人の遺骨と一緒に埋葬する合祀型で、専用の区画に生えた一本の桜の木が共有の墓標となる。墓参した知人曰く、故人の遺骨がどこに埋められているのか全く分からないので、葉桜が美しいその染井吉野を友人だと思って両手を合わせたらしい。

 十数年の時を経て、友人は本当に木になってしまった。


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