もっと現実的な映画は観ないんですか?
早朝、奥さんと二人、部屋を出る。外はしとしと雨が降っている。いくつかの電車を乗り継いで、鎌倉駅に到着。
駅前、開店直後のダンデライオンに向かう。鎌倉店舗限定、数量限定メニューのチョコクロワッサンを1つずつオーダーし、店の2階の飲食エリアで食べる。奥さん念願の一品。手の平サイズを少しはみ出る大ぶりのクロワッサンに、板チョコが一枚、ただ挟まっている。同店の板チョコはふつうに買うと1000円前後するが、チョコクロワッサンは400円程度。そう考えると、得した気分にはなる。
店を出て、地元の小中学生の墨絵が展示された短い地下道を潜り、鎌倉駅東口へ。そのまま海に向かって歩き、県道沿いにある鎌倉野菜の直売所に向かう。市場に並ぶ紫芋や茄子の鮮やかな紫が目を惹いたが、奥さんはにがうりとむかごを買う。
駅前に戻り、金沢八景行きのバスに乗って、浄妙寺前で降りる。そして、報国寺へ。去年の夏、ひとり訪れた時も雨だった。雨の竹林を歩くのが好きで、だから今日の天候は好都合だった。早朝のせいか、あるいは悪天のためか、客の入りは少ない。竹林の小径に一歩足を踏み入れると、竹の葉を打つ雨の音と、静寂が広がる。ビニールの傘越しに灰空を見上げると、竹の葉を伝って零れ落ちる雨粒が一つ、顔の上に滴り落ちる。池のほとりまで回遊し、今度は反対に来た道を戻る。最後は最初の竹林の小径を抜けて、寺を後にする。
今回の小旅行の主目的は、報国寺から徒歩数分の場所にある、一条恵観山荘(いちじょうえかんさんそう)だった。
半年前に奥さんと訪れたときは閉館していたので、再挑戦となる。自動車の往来が激しい県道の端をそろそろと歩いて入り口に着く。まだ門が閉まっており、営業開始まであと30分ある。時間潰しに浄妙寺を拝観しても良かったが、興がのらず、代わりに路地裏を散歩する。あたりはただの住宅街だが、(この地区に限らず)鎌倉は、ただの住宅街をうろつくだけで楽しい。竹垣に囲われた情緒溢れる和屋敷があるかと思えば、その隣に南イタリアの別荘のような白い漆喰壁の洋館が佇んでいたりする。それ全部必要?と言いたくなるほど小窓だらけの家とか、徒競走を開催できるくらい長いテラスを備えた家とか。高級外車の駐車率と、二世帯住宅率も高い。曲がり角から小学生くらいの子供たちが3人やってきて、カラスが、カラスが、と騒いでいる。彼らとすれ違ったすぐ先の民家の畑の上をカラスが一匹、ちょぼちょぼと歩いていた。
頃合いを見計らって再び一条恵観山荘。開門している。拝観料を払うと、受付の女性に「雨の中ようこそおいでくださいました、この場所はネットでお知りになったんですか?」と、他の寺社仏閣では例がないほど丁寧な歓待を受ける。公開してから日が浅いので、まだ拝観客も少ないのだろう。
入館すると、まず中庭が迎える。屋下のL字型の廊下を進みながら、簾越しに庭を眺める。敷き詰められた砂利、緑色の紅葉、水が溢れる雨どい。通路の先を折れると、回遊式の庭が広がる。黒松、熊笹、苔の緑が美しい足元には、飛び石の散策路。作務衣姿の男性が一人、竹ぼうきで庭を掃く以外、誰もいない。左手には茅葺屋根の、田舎家のような山荘がひっそり佇む。こじんまりとした庭園の奥に進むと、紅葉の木々が並ぶ小径、その眼下に小川が流れる。鎌倉石の川底をなめるように流れるので「滑川(なめりかわ)」。紅葉の時期はおそらく絶景だろうが、緑の樹木、雨の風情も美しい。川に面した庭園内のカフェに入り、川を見下ろす位置にある窓際の席で、抹茶やロールケーキを食べながら、川のせせらぎ、しとしと降る雨の音、ときどき、山鳩が羽ばたく音などを味わう。私たちの後に、男性客が一人、あとは結婚式場の下見らしき男女が二人、訪れるが、贅沢な静けさは最後まで保たれていた。奥さんに、また来ようと言う。奥さんも、また来ようと言う。
駅前に向かうバスに乗って、鶴岡八幡宮に行く。蓮の葉で埋め尽くされた池を、傘を差しながら眺める。天候のせいか、いつも畔にひしめいている亀やすっぽんの姿は皆無だった。
その後、歩いて小町通りに移動。鎌倉まめやで葡萄味とガーリック味の豆はいくつか買い、路地裏の釜めし丼屋で、二色シラス丼を食べる。鎌倉駅に戻り、電車に乗って隣の北鎌倉駅に向かう。まだ正午過ぎ。
北鎌倉のとあるブックカフェにて、休憩する。お茶を飲みながら、傍の本棚にある川上弘美の『夜の公園』を手に取る。有名な作家だが、作品は初めて読む。少し頁をめくって、専業主婦が不倫する話か、と思う。文章が静かで読み心地が良かったので、しばらく読み続ける。
隣の席の若い男女の会話が聴こえてくる。年の恰好は20代前半くらい、二人とも物静かな佇まいで、テーブルの上には互いの一眼レフのカメラが置かれている。〇〇の写真展はもう行きました?などと敬語で会話している。男性の方がやや年上か。同じ写真サークルに所属する二人が、お互いの共通の趣味を口実に、初めて二人きりの外出。そんな関係性を想像してみるが、どうだろう。
専業主婦は、夜の公園をいつも散歩する。公園でいつも、彼女を背後から自転車で追い抜く男性がいた。その彼が彼女に声をかけてきたのは、日中のスーパーのレジで、偶然、彼女の後ろに彼が並んでいたことがきっかけだった。彼の買い物袋には、スパムとにがうりがあった。その日のうちに、彼女は彼の部屋で、彼にスパムを使ったゴーヤチャンプルの作り方を教わることになる。
隣の席の女性が、飲み物のグラスを一口飲んで、そのグラスをコースターの上に置く。一番好きな映画は何ですか、と向かいの男性に質問する。彼は、少し躊躇いながら、クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』かな、と答える。彼女が、私まだ観たことないです、どんな映画ですか、と彼に質問を重ねるので、少し哲学的で難解な映画なんだけど、SFで、未来の話で、お父さんが数十年後の世界に戻ってきて、などと、彼は一生懸命に映画の説明をする。彼女が、私あんまりSFは観ないですね…とつぶやくと、彼は、同じ監督の『インセプション』もまあ面白いんだけど、SFに加えてアクションの要素も強くて、でも僕はこっちの方が好きで、みたいなことを訥々と語る。彼の声はゆっくりで穏やか、だが語りに少しずつ熱が帯びる。彼の熱弁がひとしきり終わったあと、彼女はグラスに残るお茶をもう一口飲んで、再びグラスをコースターの上に律儀に置く。そして彼女は、もっと現実的な映画は観ないんですか?、と彼に訊ねる。彼が、現実的なって、つまり、SFとかアクション以外の映画ってこと?と聞き返すと、彼女はただ、ええ、と答える。
専業主婦の彼女は、大学生の彼と不倫を続けるのだが、彼のことを愛している訳ではなかった。夫のことも、愛していないわけではなかった。ただ、夫のことをもう好きにはなれなかった。彼女は、学校の教師をしている友人の女友達が、夫のことを特別な目で見ていることに気づいていた。女友達は、凪のような目で、彼女の夫を見つめる。彼女は不遜にも、女友達が、夫を誘惑してくれないかと期待するようになる。
隣の席の男が、え、でも、〇〇さん、もてそうだよね、と向かいあわせの相手に語る。彼女が、ほんの少し、本当にほんの少しだけはにかんだ表情を見せて、どうしてそう思うんですか、と訊ねる。彼は言葉を選び始める。ええと、その、写真サークルとか、ほら、ほとんど男性ばっかりだし、、
次の章は、専業主婦からその夫に視点が切り替わる。夫は、専業主婦が期待するずっと前から、密かに彼女の女友達と不倫をしていた。
席を外し、お手洗いに行く。用を済ませて席に戻ると、隣の席の若い男女は年配の夫婦になっているので、あれ、と思う。離席中に、若い男女が店を出て、そのすぐあとに年配の夫婦が来店し、同じ席に案内されたのだろうか。目の前の私の奥さんは、店に置いてあった神奈川新聞をテーブルの上に広げて、熱心に記事を読んでいた。
昼間と夕方の間くらいの時刻に、店を後にする。東慶寺に寄り、草木の生い茂る菖蒲池、その枝葉に女郎蜘蛛が巣を作り直す様子などを眺めたのち、電車で横浜駅に向かう。横浜駅東口、ポルタ、そごうを抜け、みなとみらい、赤レンガ、象の下テラスを経由して、山下公園まで歩く。雨は止んでいた。山下公園のベンチに座り、目の前の海を眺めながら一休み。夜が近づいて、中華街に向かう。月餅やメンマを土産に買いあさり、四川料理の店で麻婆豆腐など。辛くて美味しい。途中、後ろの席に騒がしい団体客がやってきて、大声で巨人軍の応援歌などを合唱し始める。食事を終え、早々に店を後にした。
帰宅してジムに行く。トレーニングしながら、『ミメーシス』の上巻が読み終わる。下巻を買おうとしてAmazonで検索すると、上巻を読み始める直前に検索した時より古本の最低価格が2,000円近く上昇していた。絶版なのでもちろん新刊はない。図書館に下巻の予約を入れる。
SmartNewsのトップに並んだ記事。
・1582年創業の老舗和菓子店、115年ぶり新商品発売(朝日新聞デジタル)
・「ずっと好き、これからも」=東京・渋谷の安室さんファン(時事通信社)
・地震直後、一部地域を強制停電 北海道電ブラックアウト一時回避(共同通信)