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百日紅の木の紅い花に手を伸ばしたりなどして

爽やかな気候が続く。

昭和記念公園に遊びに行こう、となり、昼過ぎに家を出る。中央線に乗る間、つげ義春『貧困旅行記』を読む。

立川駅に着く。駅前の賑わいに驚く。ミスドでドーナッツをテイクアウト。少し歩いて、公園の入り口に。自転車をレンタルして、園内をサイクリングする。木陰の専用路を走る。そよ風が吹き抜けて気持ち良い。生い茂る緑。草いきれ。たくさんの蝉の声。ときどき鴉が木の枝の上に止まり、かあかあ鳴いている。子ども用のアスレチックが集まる広場のテーブルに腰かけ、缶コーヒーと一緒にドーナッツを食べる。

日本庭園を逍遥。盆栽園を覗く。盆栽をまじまじと眺めるのは初めてだった。解説の看板によると、盆栽には代表的な樹形のパターンがいくつかあるらしい。文人木という樹形の五葉松を気に入る。細長い幹がゆるやかに折れ曲がり、頭が鉢の外まで垂れている。樹齢は80年。木が生き続ける限り、永遠に完成しない芸術。10月に開催予定のミニ盆栽教室は満員御礼で、募集を締め切っていた。

売店でフリスビーを衝動買いして、一面に広がる原っぱで奥さんと遊ぶ。日が暮れる。蝉の声に、こおろぎやきりぎりすなどの秋の虫の声がときどき混じる。最後に、百日紅の木の紅い花に手を伸ばしたりなどして、公園を後にした。

立川駅に戻る途中の大型書店で、翻訳の異なるダンテ『神曲』既刊二冊の読み比べ。試しに、続きの地獄篇第18歌の冒頭の三行。

その場所は地獄の中にあり、人呼んでマレボルジェ、
取り巻く囲いと同じく、
すべてが鋼色の岩からなる。

原元晶(訳)『神曲 地獄篇 (講談社学術文庫) 』講談社,第18歌より
場所は地獄の中でマレボルジェと呼ばれるところだ。
ものみなすべて鉄色をした岩から成っている、
その周りをとりまく断崖絶壁も同じ色だ。

平川 祐弘(訳)『神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)』河出書房新社,第18歌より

講談社学術文庫の方が、訳文のリズムの良いと感じる。各歌単位の解説も充実している。河出書房新社は各歌の冒頭に2,3行の粗筋があり、概要の把握には便利だが、全体解説のみで物足りず、語注と本文の対応関係も分かりにくい。講談社学術文庫の翻訳を買うことにする。

帰りの中央線の中で、まどろみながらつげ義春『貧困旅行記』の続きを読む。鎌倉や箱根、伊豆など、見知った土地の、昭和の街並みを知るのは楽しい。貧乏旅行の愚痴や文句ばかりだが、それらを楽しんでいるようでもあり、からっとしている。妻と息子の三人家族で旅行するくだりが好きで、五歳の息子とのやり取りにはときどき癒される。

外で丼物で晩めしを済ませ、風呂から上がると花札を始めた。ふだん花札に興じることはないし好きでもないが、旅に出るときだけ正助は忘れずにリュックに入れてくる。しかたなく相手をする。正助は札を切り、川の字に敷いた布団の上に手七場六に撒き、私と妻をせかせる。正助を勝たせてやりたくて手心を加えても、いつも一人負けになる。以前だったら「絶対勝つまでどうでもかんでもやめない」と大騒ぎしたものだが、このごろは負けても文句を云わない。黙って札を箱に収めているのを見ると、なんだか寂しくなる。もっと駄々をこねてくれるとにぎやかで嬉しいのだが、物分りよくされるとかえって不憫に思える。兄弟でもいれば、もっともっと騒げるだろうに、こうして正助にとっては、つまらぬ寺めぐりにしても、不平も云わず親について歩くだけで、疲れて黙りこくっていたりすると、兄弟をつくってやれなかったことが、しみじみ済まなく思える。

つげ義春『新版貧困旅行記』新潮社,p.74-75

夜、家の近所の路地裏を通ると、道端に野良猫が座っている。近付くといつも逃げ出すのだが、今日はその素振りもなく、こちらをじっと見つめている。そばに近づいてみる。やはり逃げない。珍しい。頭をそっと撫でる。逃げない。喉をくすぐってやる。逃げない。再び頭を撫でてやる。ぐにゃああ、と鳴いた。だが逃げない。ぐるにゃああんと再び鳴いて、私たちの足にまとわりつき始めた。今日に限ってのこの甘えようは、一体どういう風の吹き回しだろうか。


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