見出し画像

いささか愚かしい顔つき

東京は天晴な秋晴れ。通勤の合間にKindleでプルースト『失われた時を求めて〈2〉第1篇・スワン家のほうへ』を読み始める。田園風景を中心とする幼少時の思い出語りが中心の1巻から一転し、中心人物らしきスワン(語り手の祖父の友人の息子)とオデットの恋愛に焦点を置いた都会の社交界が舞台の中心となる。プルーストは自然の美しさを描くのも巧みだが、人間の心理や感情の機微の描写が微に入り細を穿つので面白い。それが如何なく発揮されそうな幕開けで、1巻より動的・劇的な展開になりそうな予感がする。少し読んで、あとは夏目漱石の『吾輩は猫である』の続きも読む。いつも通りくだらなくてよい塩梅。

かくとも知らぬ主人ははなはだ熱心なる容子をもって一張来の鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜蠟燭を立てて、広い部屋のなかで一人鏡を覗き込むにはよほどの勇気がいるそうだ。吾輩などは始めて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと仰天して屋敷のまわりを三度馳け回ったくらいである。

いかに白昼といえども、主人のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔が怖くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」と独り言を云った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己れの醜悪な事が怖くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱は出来ない。主人もここまで来たらついでに「おお怖い」とでも云いそうなものであるがなかなか云わない。「なるほどきたない顔だ」と云ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと頰っぺたを膨らました。そうしてふくれた頰っぺたを平手で二三度叩いて見る。何のまじないだか分らない。

<中略>御三はこのくらいにしてまた主人の方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもって頰っぺたをふくらませたる彼は前申す通り手のひらで頰ぺたを叩きながら「このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん」とまた独り語をいった。

夏目漱石『吾輩は猫である』[Kindle版]青空文庫,Kindleの位置No.5888


仕事から家に戻る。誰もいない。昨晩羽田空港で購入した焼鯖寿司を半分食べる。そしてジム、『ミメーシス』の続きを読む。16章で、17世紀末期から18世紀初頭の数十年間、フランスのルイ14世治世末期における自身の宮廷生活を回想を綴ったサン=シモンの『回想録』を取り上げるが、彼の人物描写がいちいち面白い。著者は、テーヌという批評家の論文を引いて、下記のように評する。

批評家たちはみなサン=シモンの生ける人々を再現する巧みさに驚嘆している点では一致している。これ以前に書かれた回想録から、最も優れた、最も有名な人物描写をもってきても、彼のものと並べると色褪せてしまう。これほどに多くの人間を、しかもいつの場合でも明らかに特徴的に、また均一に、いつの場合でも当人の生活の基盤まで描ききって、読者に示すことのできる作家はヨーロッパ文学全体を見渡しても僅かなものであろう。サン=シモンは創作をすることはしない、彼は自分の生活のうちから手当たり次第に得た材料によっているのだ。

E・アウエルバッハ(著)篠田一士・川村二郎(訳)『ミメーシス 下 ヨーロッパ文学における現実描写』筑摩書房,p.267

例えば、マントノン夫人の最期に際して、サン=シモンは彼女のことを次のように書いている。(『回想録』第四十一巻117頁より)

 ······彼女は強く、勇敢で、極度にドイツ的で、率直で、正直で、善良で、情深く、全く彼女なりに気高くて偉大であり、またみずからの功に帰するものすべてに関して極度に細心でもあった。彼女は非社交的で、宮廷にいた短い間を除いては、常に自分の家で執筆に閉じこもっていた。厳しく、粗暴で、すぐ反感をいだき、時々誰彼なしに嚙みつくので恐れられた。人の気に入るような心使いはなく、機智を欠くのではないが、その微妙さがなかった。素直でなく、すでに述べたように、みずからの功に帰せられるすべてのものに関して、全く偏狭なまでに嫉妬深かった。スイス人の護衛兵のような顔と無骨さ、その上優しい侵すべからざる友情を容れることも可能だった······

同上,p.270-271

精神的/肉体的や美徳/悪徳などの本来対立する価値や評価が全く並列なまま混ざりあっており、内容に調和が見られない。それにしても最後の一文は何だ……。この、強烈とした違和感を与えながらも、その人物の人となり、彼女の人生の奥行に手が届くような感覚にさせるところが不思議である。

もう一例。彼女を知る誰もが魅力的な女性だと感じた、ブルゴーニュ侯爵夫人について、サン=シモンは次のように書く。

「一様にぶざまで、垂れ下がった頬、突き出しすぎた額、何も語らなかった鼻、辛辣な厚い唇······。」ひとは、彼がわざと醜い目鼻立ちを述べることから始め、ついで美点を説きおこすつもりなのだと考えるかもしれぬ。またこれがおそらく一時は彼の計画でもあった。しかし彼はそれに執着していない。なぜなら、「この上もなく表情豊かな、美しい眼」の後には「歯は僅かしかなく、みな腐っていて、彼女はまずみずからそのことをいっては嘲った」と続くのである。挙句のはてといえば、とりわけても――「······僅かばかりの、とはいえ見とれずにはいられない咽喉もと、彼女にふさわしくないとは決していえない甲状腺腫の疑いのある長い顎、······長く、まるまるした、小さい、均斉のとれた、完全にくびれた体、大雲の上の女神のような歩み、つまり、彼女はとてもすばらしい」(第二十二巻二八〇ページ)。

しかもこれで終わりというわけではないのだ。ヴィヤールについて彼はいう――「この男は相当に立派な男で、浅黒く、美男子で、年をとるにつれて肥ったが、鈍くなることはなく、元気のよい、明朗な出張った、実をいえばいささか愚かしい顔つきをしていた。」誰がこのような結びを予期しているであろうか。

同上,p.275

最後のヴィヤールに関する一節は、プルーストが感嘆して引用したらしい。ということは、『失われた時を求めて』を読み続けていれば、そのうちこの一節に再会するかもしれない。

帰宅して、夜中まで再来週の翻訳教室の課題小説をいそいそと和訳していた。ある英単語の訳し方に頭を悩ませていると、深夜、とんとんと窓を叩く音がする。もう一度、音がする。それから何度も。それらは、ベランダの窓を打つ雨の音だった。。

いいなと思ったら応援しよう!