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多分、これはほんの脱線、ほんの序の口だ

食道楽の一日。

奥さんも私も仕事が休みだった。昼に、虎ノ門の浪漫亭でハンバーグを食べる。ハンバーグという料理そのものに興味がなかった私が、その魅力に開眼したのはこのお店。ハンバーグにはちょっとうるさい奥さんが、ここがNo.1、また行きたいね、次はいつ行こうか、ねえいつ行けるの、とことあるごとに督促するお店でもある。平べったいハンバーグの表面はカリカリしていてこうばしく、中は肉汁でじゅわっと柔らかい。肉の外と内の焼き加減のバランスを追究するだけで、シンプルなハンバーグステーキがここまで美味しくなるのかと、今日も二人でため息を漏らす。ナイフで肉く切り分けるたびに、こうばしいソースの香りが匂いたつ。偶然、顔見知りの同僚が店の外を通りがかったので、サッと身を隠した。

奥さんの用事の付き添いで、一緒に銀座に向かう。バナナミルク専門店でナッツバナナミルクを飲む。山形のアンテナショップで、この前の山形旅行で二人の間で(主に私の中でだが)スマッシュヒットした、じんだん大福をたくさん買う。だだちゃ豆が持つ本来の甘味を、最も引き出しているのはこれ。間違いない。

彼女の用事の間、スタバで日記を書く。再び合流したあとは、Sony Imaging GalleryでKazunori Nagashima 作品展 ”soliloquy -独白の空間-”を観る。一人の女性の身体が、室内の壁や扉、家具に触れる。部屋に差し込む自然光は白く、明るい。だが写真全体から受ける印象は冷たい。部屋の入口や扉のすき間越しに写る彼女。同じ部屋にはいないという距離感が、静かな緊張を生む。壁の向こうの奥の部屋で、扉にそっと額を傾ける彼女の写真が一番良い。背後から写真家本人と思しき方に呼び止められて、その写真のポストカードをいただく。併せて、未展示の写真が数枚綴じられたポストカードサイズのブックレットも一緒にいただいたので、会場の外でパラパラとめくる。孤独なのに、誰も必要としていない。そんな静かで、冷たく、寂しい写真が並ぶ。

展示会場の階下にある、Sonyのショールームを見て回る。何より、最新型のaiboの愛くるしさ。ヒトは、生命をもたない相手に対しても、簡単に愛着が持ててしまう。アニミズムとか、コレクターの偏愛とは次元の異なる、何か生々しい感触。仕事でChat botとやり取りするときに感じる奇妙な親近感とおそらく同じもの。

スープカレーの店で夕飯を食べる。店内のモニターに、フルハウスのドラマが流れている。幼いD.J.とステファニーが、ダニーに内緒で犬を飼い始める回で、数十年ぶりに見たが、ジョーイもジェシーも、登場人物たちのことは全て覚えていた。声出して笑う。奥のテーブルに座る会社員らしき4人組が、スープカレー屋なのに、スープカレーを食べずに筑前煮をオーダーしていて、思わず彼らの方を二度見する。

夜、近所のドンキ・ホーテで割安なクロスバイクを買う。漕ぎ始めると、前に進まない。チェーンが外れていた。明らかに自転車の扱いに慣れていない店員に、チェーンをかけなおしてもらい、念の為、油もさしてもらう。乗り始めたら、シティサイクルより乗り心地がずっとよくて、すいすい進む。奥さんと交代しながら乗って、はしゃぎながら家まで帰る。

ジム。プルースト、残響のハーレムと迷った挙句、ヴァージニア・ウルフ『』の続きを読むことにする。第二幕の途中から。学生時代の6人は、夏季休暇を迎えて、寄宿先から鉄道で故郷に帰省する。独白が交互に続く。

「家では、牧場一面に干し草が波打っているわ。お父さまは煙草をくゆらし、回り木戸にもたれていらっしゃる。家の中では、人気のない廊下を、夏風が吹き抜け、戸がばたんばたんと次々に音を立てる。きっと壁にかかった古い絵が揺れて、壺にさした薔薇の花びんが一枚、散っているわ。農場の荷車が、干し草の束を生け垣にまき散らす。こうした状況が目に映るわ」

ヴァージニア・ウルフ(著),川本静子(訳)『波』みすず書房,p.34
「これが最後の儀式だ」、バーナードは言う、「あらゆる儀式の最後のものだ。僕らは不思議な感情に圧倒される。車掌が、旗を手に、まさに笛を吹くところだ。汽車は、一瞬後に蒸気を吐いて、出発せんとしている。何かこの場にまさにぴったりしたことを言いたいし、感じたいんだ。心の準備はでき、唇は結ばれる。」

同上,p.51
「向こうに山高帽をかぶったパーシヴァルが見えるぞ。彼は僕のことなど忘れてしまうだろう。僕の手紙を、返事も書かずに、鉄砲や猟犬のあいだに放ったらかしにしておくだろう。彼に詩を書いて送ると、きっと絵葉書で返事をよこすだろう。だが、それだからこそ、僕はあ奴が好きなんだ。会いたいと僕が言ってやる――どこかの交差点の時計の下で。だが待てども、あ奴は来ないだろう。だからこそ、あ奴が好きなんだ。忘れやすく、殆ど全く気づかずに、彼は僕の生活から消え去っていくだろう。すると僕は、信じられないようだが、他の人たちの生活の中に入っていくだろう。多分、これはほんの脱線、ほんの序の口だ。」

同上,p.52

おそるべき頻度で、文章が心を刻む。引用し始めるときりがない。これはこの先何度も読み返す本、手元に置いておくべき本だと判断し、購入しようとAmazonで検索すると、すでに絶版。中古書でその価格、5万円。高価ゆえに図書館から借りることにしたことを、すっかり忘れていた。それにしても5万円て。購入は諦める。いつか再販されることを夢見て。是非、この川本静子が訳した版が欲しい。訳者のことをGoogleで検索し、すでに他界されていたことを知る。

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