映画『八犬伝』を見て(ネタバレあり)
『これは里見八犬伝のファンタジーのアクション映画ではなく、
滝沢馬琴(物書き)と葛飾北斎(画家)というアーティスト達とその家族の創作活動における苦悩の半生を描いた物語。』
(記事内の敬称略、ご了承願います。)
出演:役所広司、内野聖陽 他、監督・脚本:曽利文彦の作品ですが、私は映画を見るまで、1983年深作欣二監督、真田広之、薬師丸ひろ子主演作品の現代版リバイバルみたいな感じだと思っていたのですが、
いざ見てみたら、八犬伝を生み出す作家、滝沢馬琴の作家としての生き様を描いた映画だったなと。
28年に渡りこの物語を書き上げる中で自分が妄想し、書き上げるファンタジー(虚構)の物語とは対照的に、厳しい現実の世界を生き抜かなければならない馬琴。
磯村勇斗演じる息子(鎮五郎)の為、かつては父親の念願の夢という武家への思いから子供に厳しく躾として、威厳を保ち接してきた。
だがその期待や思いとは裏腹に医者への希望も絶たれる程の病に伏せる鎮五郎(宗伯)。
「私も、宗伯も何も悪き事をしていないのに!何故、こんなことに」
(現実は無慈悲で無情なのか。)
馬琴が漏らした言葉には、厳しい現実への叫びが込められていた。
現実で生き抜くのが辛い馬琴は物語(虚構の世界で悪が滅びで善が勝つ理想的な世)を描くことで自分の希望とし、糧として生きながらえてきた。
舞台下(奈落)での立川談春が演ずる鶴屋南北との会話は、八犬伝を糧てとして生きてきた馬琴にとっては、現実を叩きつけられた苦しい瞬間だったに違いない。
幾度も八犬伝を書くのを辞めようかと思っている馬琴を、自らの素晴らしい絵によって創作意欲を湧き立たせ側で支えていたのが、内野聖陽が演ずる葛飾北斎。
馬琴の物語を聞いた北斎のため息にも似た感嘆の声。
北斎の挿絵を見て目をキラキラ輝かせ、子供みたいに、これだ!と言ってる馬琴。
お互いがお互いの才能を尊敬し認め合い、側にいて創作意欲を刺激し合う。
アーティストとして、クリエイターとして、お互いを理解し合える唯一無二の存在だったに違いない。
毎回二人のお決まりの『挿絵をくれないか?!』『それは出来ない!』
このやり取りは、この映画の中で、唯一クスッとなれる瞬間だった。
絵を取られた馬琴の顔は毎回、見てるこっちが吹き出してしまう程の表情🤣
寺島しのぶ演ずるお百は夢物語に生きる男とは対照的に現実を生きる女。
いつも酷い言葉で馬琴を罵るお百だったが、きっと見てるようで見ていなかった馬琴に対する寂しさからくる言葉だったのではないかと思う。
別の世界に置いてけぼりを食らったような、でも、一緒にその世界に入れるほど自分には才能も学もないことがわかっていたから、寂しくて悔しい思いから来ていたのではないかと思う。
「草履屋の嫁で良かったんだよ!!」って言っていたのがその証のように思えた。
一緒に商いをして、一緒に現実を生きて欲しかったのだと。
男は理想や虚構を生きて、女は現実を生きる。
綺麗事、戯れ事だけでは生きていけないのを分かっている。
昔の女はいつも、男の夢話に置いてけぼりに思う事があるのではないか?
だが、死ぬ直前まで言っていた夫の言葉を胸に刻み、女でありながら、男の夢話を最後までやり遂げた黒木華が演ずるお路の強さには胸を打たれるものがあり、
途中でやっぱり辞めた!!という馬琴に最後までお願いします!と懇願するところも『虚構を最後まで続ければ現実になる』という渡辺崋山の言葉通り、
家族がいて、宗伯がいて、その嫁のお路がいたからこそ、この八犬伝というファンタジーが最後まで描ききれた。
こうして馬琴は、虚構だと思っていた現実社会のおかげで、自分の生涯、歴史上に残る代表作を作り上げることができた。
また、馬琴とお路のところに、最後現れたお百の言葉には、
(私が最初から諦めてできなった事(一緒に物語を書き上げる事)を、女のお路が成し遂げていることに対して、羨やましさと、息子の遺志や、夫の意志を一緒に引き受けてくれてありがとう。)
そういう思いが込められた一言だったのかと思いました。
私からみると、馬琴のこの生涯こそが壮大な作家、滝沢馬琴という物語であり、この映画になる程のドラマチックな世界に感じました。
八犬伝の小説の中の物語と現実の世界が交互に繰り広げられるこの映画ではありますが、主に私は馬琴の現実の話に惹かれました。
正直ファンタジーの方は盛り上がってきたーー!って思った時に、場面が馬琴の方に切り替わるので、私の集中力がブツ切れで八犬伝の話に入り込めなかったというのが本音です。
なので、映画全般の構成が
『馬琴→八犬伝→馬琴』
ぐらいだったら私的に集中力切れずに見れたのかな?と思いました。
(あくまでも個人的な感想ですが。)
とにかく滝沢馬琴、演ずる役所広司さんの演技が素晴らしかったです。
ラン丸でした。