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米津玄師「首なし閑古鳥」

初めてこの曲を聴いた時、何も感じ取ることができなかった私を恨んだ。

他者と生きることが難しい人間に、それでも他者と生きていく素晴らしさをこんなにも優しく説いているのだ。

それに気がつかずにここまで生きてきてしまったことに呆然としている。

12年前、高校生だった私は未熟すぎたんだな、と後悔するばかりだ。

あの時、人間的に成熟した状態でこの曲に出会えてたら、楽しい人生を送れただろうに。

アラサーの私が12年越しに「首なし閑古鳥」から感じたことをつらつらと書いていく。

歪な自分が他者と生きるには

「なんとも歪な形で生まれて なす術なんかなかったけど」

米津玄師「首なし閑古鳥」

「歪な形」というのは自らの身体や心の歪なところを指していると思われる。

生きていれば、自分の醜いところ、コンプレックスといえるようなところは一つくらいはある。

そのようなコンプレックスをすぐに解決することなんて、できるはずもない。

「あなたによく似た心があるのさ それさえ確かであればいい」

米津玄師「首なし閑古鳥」


歪な自分を「歪ではない」と世間は簡単に肯定しがちだが、実際に自らを「歪だ」と呪ってる人間の心に、そんな綺麗事は刺さらない。

「歪」ではあるかもしれないが、大切なあなたとよく似た心があることが確かなら、それでいいのではないかと、米津玄師は言うのだ。

歪な自分ばかり見ていないで、目の前の誰かと対話することを諦めないという姿勢はなんとも米津玄師らしい。

「自意識」という言葉があるが、コンプレックスがある人間がその呪いから逃れるために必要なことは「自意識」からの解放だと思う。

自意識から解放されるにはどうすればいいのか。

それはコンプレックスを治すことではなく、他者へ開けることなのだと思う。

「愛されたいのは 悲しくなるから 見つめていたくはないけれど
あなたによく似た 言葉探しては 灯りを焚いて話がしたい」

米津玄師「首なし閑古鳥」

「きっとわかってる 汚れた酸素が 二つの間にあることを
どうにもこうにも 心があるのさ 優しい梅雨が降ればいい」

米津玄師「首なし閑古鳥」

人から愛されるという経験は他者と関わらないと成り立たないことだ。

他者と関わるということは、喜びだけでなく、悲しいことだったり、寂しいことだったり、多かれ少なかれ心に痛みが伴う。

悲しみや寂しさ、分かり合えない辛さは心があるからこそ感じ取れることで、裏を返せば心があるから他者と関わる喜びも得られる。

他者と関わることを負の感情を持って切り捨てるのではなく、苦しみも受け入れながら他者と関わっていこうというのだ。

これこそが他者に開けることで、自分自信と客観的に向き合い、他者に目を向けることができるようになる。

「自意識」から解放される。


米津玄師の幸運は、他者と関わることを諦めなかったことだと思う。

それは「運」というより、努力という点も大きいのかもしれないが。

内に籠ることなく、他者へ開けた振る舞いをし続けたからこそ現在に至ることができたのだと思う。

これを初めて聞いた高校生のわたしは自意識に囚われまくっていた時期であり、自分にしか目が向いていなかったばかりに、この歌詞が届かなかった。

あの時、少しでも他者へ目が向くような生き方をしていれば、と悔やまれる。

今、この歌詞を見て米津玄師が改めてサイコーだって気がつける。

成長できたんだ、わたし。幸せだ。

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