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米津玄師「caribou」、絵本「幸せな日々」
「caribou」は初めて聴いた当時も、今も「めっちゃ喧嘩してるやん・・・」という感想で一貫している。
言葉が弾丸なら、銃口は一周回って言葉を発する口なのだなとか、細かい面白さはあるが、一旦ここではそこは割愛する。
今回話したいのは、曲そのものよりも、この曲とリンクした絵本「幸せな日々」の方である。
「幸せな日々」は米津玄師公式ホームページで読める絵本であり、1stアルバム「dioarma」に収録されている「caribou」はこの絵本に出てくるカップルの喧嘩ソングだと解釈している。
絵本を読んだ当時はあまり響かなかったが、生きにくさを感じながら子供時代を生き、その後は限界社会人となって自分自身を変えざるを得なかった今、改めて読み直してみると心に刺さるどころか大怪我をした。
内容を一読した上でここから先は読んでほしいが、さらっと流れを説明すると、以下の通りだ。
会社でなかなかブラックな働き方をしているカリブーは心身ともに疲弊していたが、気の合う恋人と一緒にいられて幸せだった。
そんなある日、ひょんなことで心に限界が来てしまう。
そこに見ず知らずのニワトリが現れ、カリブーに囁く。
「君の不幸を取っ払うことが、私にはできるんだけど。」
ニワトリの言うに、カリブーのツノを取れば不幸から逃れることができると。
不幸とは恐怖、苦痛、悲哀。
カリブーはツノを抜いてしまい、楽観的になった。
しかし、カリブーが変わってしまったからか、恋人に別れを切り出される。
カリブーは呆然とするものの、ツノを抜いてし待ったので特に悲しみに暮れることはなかった。すぐに次の相手を探し始めるところで物語は終わる。
この物語はカリブーが「ツノ」に象徴される、「不幸の源」をとってしまったがゆえに恋人に振られ、それすらも気にしなくなってしまったというハッピーエンドともバッドエンドとも言い難い話だ。
だが、社会人として忙しく働き、以前のように色々なことを感じられなくなってしまった経験がある人には身に覚えのある感覚だと思う。
あるいは、うつ病などになって抗うつ剤を飲んだら心が乱れなくなった感覚とも取れるか。
私はうつ病経験はないので、どちらかといえば前者の感覚だ。
私も社会人として忙しく働いていった結果、以前よりちょっとしたことで落ち込まなくなったし、気にしなくなった。
それを成長と呼ぶ人もいるが、はたして本当にそれは成長なのだろうか。
ここで、絵本の内容はやや抽象的な表現が多いため、具体的にどういう話だったのかを整理していく。
言わずもがなだが、これはあくまで私の解釈なので正解ではないことをご承知いただきたい。
カリブーはツノを抜く前と、後では人が変わってしまった。ツノを抜く前のカリブーは恋人に次のように表現されている。
「あなたは誰かの痛みを知ることができる、とても優しい人よ。
だからこそ自分を深く傷つけてしまう。」
しかし、ツノを抜いてしまった今、カリブーは楽観的で、いろいろ物事を深く考えなくなってしまった。
ツノ=不幸の源と物語の中では表現されているが、これをわかりやすく砕いた表現に置き換えると、心の豊かさだと思う。
豊かな心を持っているからこそ繊細で、それゆえ人の痛みがわかる、不幸を感じ取れる心。
カリブーはそんな心を持っているゆえに人に優しくなれた。恋人もそんなカリブーに惹かれたのだろう。
物語の中で不幸とは、恐怖、苦痛、悲哀の3つと表現されている。
恐怖について、ニワトリは次のように語る。
「一度踏み外せば、淵の底へ真っ逆さま。それっきり、元居た場所には戻れない。
険しい修羅の道を進むことになってしまう。」
まるで現代社会の構造そのものみたいだ。
一度失敗した人間に、この社会は優しくない。
やり直すことは出来なくはないが、それなりに大変な道が待っていよう。
仕事を辞めるなんて、恐怖だ。
さらにニワトリは苦痛についてこう語る。
「例えば、君は大きな岩石に踏みつぶされているとする。
抜け出そうともがけばもがくほど体は潰されていき、そのたびに激痛が走る。
ー中略ー
頭で考えられることは痛みと苦しみだけだ。」
まさにカリブーが今いる状況であり、大半の人は日常という岩石に踏み潰され、もがくほど苦しさが増していく経験があると思う。
頭で考えられることは痛みと苦しみだけ。
家事や育児、仕事に忙殺された人々にとって、そんな瞬間は幾度となく訪れたことがあるだろう。
悲哀については次のとおり語られる。
「例えば君は小さな檻の中で1人閉じ込められているとする。
何の刺激もない、平坦な毎日を強いられるんだ。
味方はいないし、敵すらもいない。いつまでたっても1人だ。」
日常は続き、英雄になるわけでもなく、退屈が連続する人生。
米津玄師「毎日」の歌詞にあるような、「毎日毎日毎日毎日 何一つ変わらないものを僕はまだ愛せるだろうか」と言いたくなるような日々。
人生にふとした瞬間に訪れる孤独。人は心という「檻」から出ることはできないから。
そしてニワトリは続ける。
『不幸を作り上げるのは自分自身だ』
どんな出来事も心の持ちようと、言ってみればそうなのだが、ニワトリがいうにはそれなら不幸を作り上げるツノを取ればいいではないかと。
心の揺れを殺してしまえば、ちょっとしたことでは疲弊しなくなるし、何も考えなくなれば今の状況をどうにかしようという抗う気持ちもなくなるのではないかと。
現代社会で今、まさに起きていることではないか。
考えなければ楽になることなんてたくさんある。
クソみたいな会社を変えようなんて、上層部に抗うのは大変な労力だ。
クソみたいな世の中を知ろうと政治を学ぶことも大変だし、考えれば考えるほどこの世の中がダメなことがわかってしまう。
女性の権利を認めてもらうことなんて、100年前から声をあげている人がたくさんいるのに全然進まない。
マイノリティとなった人たちの気持ちなんて、自分の人生に関係なければどうだっていいと思ってる人がたくさんいる。
見ないふりして考えなければ楽になる。けれど、それでいいのか。
私は社会に出てからというもの、繊細さが良くも悪くもなくなってしまったと思う。
それでも、社会の不条理には怒っていきたいという気持ちからできる限り世の中で起きていることを知ろうとは思っている。
しかし、それ以外で、どうでもいいと切り捨てるものが増えた。
どうでもいい、と全てを切り捨てずに生きるには、この世は辛すぎる。
ただ、どうでもいいと切り捨てた中に捨ててはいけなかったものが本当になかったのか、とこの絵本を読み直して不安になった。
最近友人の悩みを聞いても「どうでもいいことで悩んでるな」と思うことが増えた。
前はそんなことなかったのに。
私も社会人として辛い世の中を生きる手段として、ツノをとってしまったのではないか。
ツノがなくなることは生きる術あって、完全に悪いこととは言い切れない。
どの程度、ツノを無くすのか、も人によって違うし、じゃあどの程度までが
許されるとか、そういうことでもないと思う。
生きる環境によってツノをどの程度残すかは変わってくるし、ある意味で生存戦略なのだと思うから。
それに、環境が変わればツノはきっとまた生えてくるだろう。
ツノをなくして生きてしまうほど、世の中は悪くなっていくし、
かといってツノを持ち続ければ心はすり減っていく。
私たちは常にその塩梅を考えて生きていかなければならない。
絵本「幸せな日々」は今一度、何から目を背けているのか、それは背けていいものだったのか、自分に問い直すきっかけとなる作品だった。