欲しかったのはハートが開くあの感覚
春休み鹿児島に旅行に行こうかな〜と考えていた。
去年の同じ時期に行った鹿児島一人旅がとても良かったから、今度は子供達も連れて行きたいと思ったのだ。
だが息子は今、昼夜逆転していて2泊3日の旅行に耐えられるとは到底思えない。
娘の方は思春期の入り口に突入しているらしく「えー行きたくない・・・」と。
ならば娘を近所のお友達のお家に預かってもらって私一人で行こうかと思えばそれも拒否。
とにかく私の選択肢は「行かない」しかなさそうなのだ。
行けないとなると余計に行きたくなるのが人間。
なんだかモヤモヤと数日過ごしていた。
そこでなぜ鹿児島に行きたいのか?
何がそんなに良かったのか?
考えてみた。
すると、思い出すのは一人で桜島を見ながらゆっくりと露天風呂に入ったこと。温泉から出たらリクライニングの椅子に横になりながら外の景色を眺めたりうたた寝したこと。山の上のホテルから散歩がてら新緑の美しい道を下ったこと。美術館に併設するカフェで外の景色を眺めながらゆっくり美味しい飲み物を飲んだこと。海辺を散歩して桜島を間近に見たこと。霧島のスタバで物語を描いたこと。鹿児島神宮の神秘的な裏山で瞑想したこと。帰りの新幹線で熱いミルクティーを飲みながらホッとして文章を書いたこと。
これら全て本当に普通のことばかり。特に面白い観光名所に行ったわけでもハプニングがあったわけでもない。
これら全ての瞬間私が感じていたことは、私の「ハートが開く感覚」。
そう。私が欲しかったのはただひとつ。
「ハートが開く感覚」それだけだったのだ。
私は一人で新幹線に乗ったり、美しい自然に触れたり、気持ち良い空間でひたすらぼーっとするとハートが開くらしいのだ。
ただその感覚を得たいがために鹿児島に行こうとしていた。
もちろん鹿児島は私にとって特別でハートの開きやすい場所なのかもしれない。
だけれども、鹿児島じゃなくても、今ここでもハートが開く感覚になることはできることを私は思い出した。
瞑想したり、深呼吸したり、プールで泳いだり、犬の散歩に行ったり、カフェでぼーっとしたり。
そうやって私は自分でハートが開く瞬間を作り出すことができることを日々に忙殺されてまたすっかりと忘れていたのだ。
本当に私は簡単に忘れる。
「わかった!」と思ったり、「思い出した!」と思うのは本当に束の間。あっという間にそれは忘却の彼方に押しやられてしまう。
私は本当に忘れやすいのだから、何度でも思い出す時間を自分で作っていかなければ。
それを習慣にしなければ、私はまた焦って本当の自分からずれて不満だらけになってしまう。
今は鹿児島に行けない。
でも今ここで、ひとりで、ハートを開くことはできるんだ。
あの感覚は本当はいつでも感じることができるのだ。
それを忘れないように、忘れても思い出せるように、習慣作りをしようと思う。