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愛のカタチはひとつじゃない。大切なのはどれを選ぶか

愛のカタチって目に見えないよね。

これが愛だろうって、それぞれが考えたことをやっているにすぎない。

みんなそれぞれ違っているし、違っていてもそれぞれが愛なんだ。

だからあんまり愛のカタチを「これ」って決めないほうがいい。

決めてしまったら、他の愛のカタチは受け取れなくなるから。


あれも愛
これも愛
この世のすべては愛

そんなふうに思えるようになるといいよね。

きょうはそんな愛のカタチについて‥‥



わたしがこうやっていろんな経験をしてきて最近しみじみ思うのは

愛のカタチはひとつじゃない

ってこと。


たとえば「こどもを絶対に褒めないとか認めない」

これだってわたしの母親にとっては「傲慢な人間に育たないように」わたしのためにポリシーを持ってやったことで、わたしの母にとっては愛なんだよね。


「妻やこどもの好きなものをいち早く察して勝手に買ってくる」とか「こどもが苦労しそうなことは先回りして排除する」ということだって、夫にとってはそれが馴染みのある愛の表現だったんだ。夫自身もそれが愛だと言われて、親から同じことをされて育ったのだ。

「飴とムチを使ってコントロールすることが愛だ」と思う人もいる。

「自由を制限することが愛だ」と思う人もいる。

「お金が愛だ」と思う人たちがいる。

「セックスこそが愛だ」と思う人たちもいる。

「こどもの挑戦を温かく見守って、いざとなったら助けることが愛だ」と思う人もいる。

愛というのは教科書にのっていない。愛というのは目に見えない。愛には決まったカタチがなくて、わたしたちは正解がわからない。

分からないなりに自分が受け取ったものを愛だと信じて、みんな手探りで実践しているのだ。



そこに「正しい」とか「間違っている」という判断を持ち込んでも意味がない。

愛は正しさでは計れない。

同じ愛のカタチでも、ある人にとっては正しくて、ある人にとっては間違っている。

それは受取手の感性の問題でもある。


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わたしの人生のテーマであるセクシャリティー、毒親、癒し、統合、死別、共依存などについて綴ります。目標月10本以上更新。みなさんの応援がわた…

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