母親という理想と現実の狭間で
私が求める「母親」とは一体どんな存在なのだろう。
優しくて包容力があって、どんな話にも共感してくれて、認めてくれて、嬉しい時には一緒に喜んでくれて、悲しい時には一緒に涙を流して寄り添ってくれる。
「大好きだよ」と言ってくれて、目を見てにっこり微笑んで、ぎゅーっと抱きしめてくれる。
「あなたがこの世に存在してくれて嬉しい」ということを全身で表現してくれる存在。
それが私が求める「母親」だ。
では実際の私の母親はどんな人だろう。
まず人の気持ちがあまり分からない。共感力が乏しくて表情が暗くてとても冷たい印象を与える。人の目を見ない(見れない)。他人に触るのも触られるのも苦手(物心ついてから母に触れられたことがない)。子供を褒めない。認めない。否定ばかりする。子どもに愚痴を聞かせる。
こうやって書き出してみれば、母はゴリッゴリのASDだ。というかASD以外の何者でもない。
そして私の理想の母親像とはかけ離れているということがよく分かる。
それなのに私はASD全開の母親にずっと理想の母親像を求めていた。理想の母親像を重ねては、真逆の対応をする母親の言動に深く傷付いてきた。
今なら分かる。
そんなの無理だ。無理ゲーすぎる。
特性は努力ではどうにもならないのだから、母が私の理想の母親になれることは一生ないのだ。
ないものを求めても仕方がない。そんな徒労で一生を終えたくない。「母親にはできないことがある。」私はそれを肝に命じて生きていかなければならない。
私の母は優しい言葉をかけたり共感したり寄り添ったりすることはできない。その代わり、頼んだことはだいたいやってくれる。気を利かせてプラスアルファは望めなくても、こちらが投げた言葉通りの行動はできる。それから私の子供を可愛がってくれる。お年玉をくれてお誕生日祝いをくれる。妹の子供ほどではないにしても会えばそれなりに可愛がってくれる。そしていざとなったらたぶん助けてくれるだろう。例えば私が不慮の事故で死んだりしたら。何より身内でいてくれる。夫の家族と縁を切った今、母親は数少ない貴重な身寄りなのだ。いてくれるだけで有難いではないか。
こうやって母親に感謝できることを見つけて、諦めることはキッパリ諦めて、割り切って母親と付き合うことがこれからの私の課題だ。