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【小説】初夢なんて見ない⑤

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 5

 健太郎けんたろうの部屋の窓を雨風が叩く。雷が暗闇を一瞬青白く照らすと、遅れて動物の唸り声のような雷鳴が聞こえてくる。
 健太郎が眠れなかったのは、雷雨のせいではなかった。
 『オニオンハウス』で聞いた金原かなはらまもるの会話が原因だった。初実はつみが股を擦った理由を守は知っているはずだ。すぐにそう思ったが、車内で守にそれを問いただす勇気はなかった。守が明らかに苛ついていて、直売所に着いてからの仕事の指示にも怒気が含まれていたからだ。健太郎は今日だけで三度も守に怒鳴られていた。
 家に戻ってきてからはずっと佐岡さおか家の誰かと一緒だった。健太郎は、うっかりその場で初実の話をしてしまったらまた朝子がヒステリックを起こす気がして、上手く口を利けなかった。
 疑念が残ったまま布団に入ると、頭の中で金原の話が悪い方向にばかり転がった。
 守が初実と納品に行った日に限って帰りが遅いことや、昨晩守が部屋にいなかったこと。思えば、初実が守ではなく、入って三か月の自分にばかり話しかけてきていた。
 考えれば考えるほど、健太郎は守と初実の想像したくない関係が頭に浮かんだ。
 健太郎は気を静めるために便所に行こうと、廊下へ出た。襖を開けると、斜向かいに守の部屋がある。立ち止まって、じっと襖を見つめる。
 今、守は部屋にいるだろうか。
 健太郎に付き纏う疑念が、守の部屋の前へと勝手に足を運ばせていた。
 息を飲んで、襖の引手に指をかける。眠っていることを願って、一気に襖を開ける。
 雷鳴が轟く。凄まじい音とともに守の部屋が照らされる。窓に背を向けて布団の上に座る人影だけが黒く残る。
「守ならおらんよ」
 そこにいたのは、初継はつつぐだった。声は落ち着いているが、ひどく疲れを感じさせる。
「金原に全部聞いたから来たんやろ。今日くらいは、守も部屋で震えて寝とると思ったんやけどなあ」
 雨がうるさくなる。健太郎は呆然と立ち尽くす。
「若けえもんの性欲は化けもんだで」
 初めて耳にする、初継のこんなにも昏く淡々とした口調が、全てを察せさせる。
 ここに初継がいる理由など、どうでもよかった。
「守さんは」
 どこに、と続ける言葉が出ない。最悪の予想が確信に変わる恐怖と怒りが、健太郎の喉を詰まらせた。
 初継は無言でゆっくりと、部屋の壁を指差す。本宅のある方だ。初実の部屋だとすぐにわかった。
 健太郎は廊下を音を立てて駆け出した。裸足で玄関を出ると、痛いほどの雨粒が健太郎の肩にぶつかる。泥混じりの飛沫が駆けるたびにすねを汚す。耳が雑音で埋め尽くされる。
 二階にある初実の部屋の窓の横に、エアコンの配管が這っている。守が一階の正面玄関を通らず初実の部屋に入るなら、ここから上る以外ない。健太郎はそれには見向きもせず、玄関の引き戸を力任せに開けた。鍵はかかっていなかった。
 濡れた足が玄関のタイルの上でぺちゃぺちゃと音を立て、止まる。
 健太郎の目の前には、朝子あさこがいた。
 玄関を入ってすぐ右斜め前に二階へ上がる階段がある。朝子はその入り口の端で、壁にもたれながら、耳を塞いでうずくまっていた。
 初継の戻りを待っているようにも、ましてや眠っているようにも見えなかった。震えていたからだ。
 朝子は玄関から入ってくる雨音が大きくなったことに気付いて顔を上げる。
「あれ、健太郎君。夜中にどうしたと」
 健太郎にはその昼間と同じ明るい声が、嘘だと気付かないわけがなかった。朝子の真っ赤に腫れた目の隈は深く、風呂に入った後なのに肌がくすんで見えた。
 健太郎の眼光と濡れそぼった体に、朝子は訪問の理由を察して目を落とす。笑顔が徐々に崩れていく。
「全部聞いたんね。守はダメやったんよ。私はね、お父さんにはな、話してわかってもらいって言うたんやけどな、守君も大人やからわかってくれるって言うたんやけど、聞かずに部屋に走って行ってもうた。でも、こっちに守君、来てたんやね。初実んとこに、来てたんやね」
 絞り出す声が震えている。朝子の頬に灰色の涙が伝う。
「ああ、やっぱり、嫌やわ」と呟くと、再び耳を塞いでうずくまる。
「こうせんと、寝れんのよ。初実の声が可哀想で」
 健太郎には雨音と雷鳴しか聞こえない。朝子には、初実の悲鳴や助けを呼ぶ声の幻聴が聞こえているようだった。
 朝子の寝室の真上に初実の部屋がある。階段でうずくまっていたのは、なるべく声の聞こえないところへ逃げたかったからだ。
「十年目でようやく授かった子なのにね、助けてあげられんで。母親失格やわ」
 朝子は自分の膝に向かって言葉を吐くと、縮こまって、動かなくなった。
 初継といい、朝子といい、健太郎には二人の言葉の全容が掴めていなかった。しかし今は、知ろうとも思わない。健太郎の中には、守が初実にしていることへの怒りだけが渦を巻いていた。
 健太郎は雨水で足跡を付けながら、階段を上る。二階の廊下の右側は大きな窓が列をなしており、外の僅かな灯りが吸収されたように青く、明るく、蒸されている。
 突き当りに面する襖の前に立つ。そこが初実の部屋だった。
 廊下の窓が一斉に揺れる音がうるさいのに、健太郎には襖の中の息遣いが聞こえた。「守さん」
 蚊の鳴くような声で呼びかける。返答はない。
 雨音でかき消されたのかもしれない。もしくは、初実に夢中で聞こえていなかったのかもしれない。
 再び呼びかけることなく、健太郎は襖を開けた。エアコンの冷気が漏れる。
 案の定だった。健太郎の目に飛び込んだのは、初実の黒々とした陰毛が燃え立つ股に顔を埋める守の尻だった。布団の横には脱ぎ捨てられた守の寝間着の上に、初実の下着が乗っかっている。服の重なりの間から、おままごとセットのピンク色の箱が見える。
 初実は仰向けで天井に両腕を伸ばし、守の携帯から流れる動画を見ている。守の行為に無反応なのは、初実がアニメに夢中だからだ。
〈君の、笑い声に、ハートブレェイク! イエス!〉
 初実の持つ携帯から歌が流れる。『ラブおん!』の主題歌だった。口を半開いたままそれを眺める初実の目からは、感情が感じられない。
 襖の前で健太郎は、守と話し合って事を収めようと少したりとも思わなかったわけではない。しかし、本能のままにうごめく守の姿と、そこに流れる歌の雰囲気がかけ離れ過ぎている光景が、感情を混ぜ返した。
 健太郎の頭は破裂しそうなくらい、熱くなる。
〈この歌、流行ってんの? 最近よく聞くけど〉
 車内で聞いた守の言葉が、フラッシュバックする。
 守が振り返るのと同時に、健太郎は奇声を上げて跳びかかる。守の脇腹に乗りかかると、健太郎は一心不乱に守の頬に拳を振り下ろした。
「ああああ」
 一発。
「ああああああ」
 二発。
「ああああああああ」
 三発。
 言葉にならない咆哮を上げ、殴り続ける。初実の短い悲鳴が上がると、それはすぐにサイレンのような泣き声に変わる。
 守は健太郎の拳を制止することなく、裏手で健太郎の顔を軽々と振り払う。その一発で、健太郎は頭を壁に打ち付け、力が抜ける。守と健太郎の筋力の差は明らかだ。
 間髪入れずに、守は上半身を起こすと健太郎の頬を張る。健太郎が床に叩き付けられる。今度は守が跨り、右手で健太郎の首を抑えながら、左手で鼻っ柱に拳を見舞う。
 健太郎の鼻から血が溢れる。
「初実さんを、初実さんを」
 健太郎が戯言のように涙声で繰り返す。
「初実ちゃんを何だよ」
 守が健太郎の頬を張る。目は血走っている。
「お前の初実ちゃんじゃないだろ」
「む、無抵抗の女性じゃないか」
「違うよ、自分で濡らすよ。無抵抗じゃないだろ。何しに来た。初実ちゃんを救ってヒーローになろうって来たのか? それ、本当に初実ちゃんが望んでんのか? 頭が緩くて男に縁がない初実ちゃんが、世話をしてくれてる俺に喜んでるって発想はなかったのか? 妄想で初実ちゃんを勝手にヒロインに仕立てて、センズリこいてただけじゃねえのか?」
「そんなの、初実さんが悲しんでるかもわからないだろ」
「だから、お前は初実の何なんだよ!」
 健太郎の首が締め付けられる。「死ねよ」「童貞」と言いながら、守は健太郎の頭を掴んで何度も床に打ち付ける。
「障害者に奉仕してやってる俺の方がよっぽど誠実だろうが」
 守が怒鳴るたびに、初実の泣き声が波打つ。
 健太郎は後頭部に鈍痛が重なるにつれ、死を覚悟した。初実のことが何もわからず、何もしてやれなかったことを後悔する。
 涙でかすむ目の向こうの襖に人影が見え、死神かと思った。
「大卒のくせにこんな貧乏農家にしか就職できねえお前に偉そうな口ーー」

 サクッ。

 守の喉仏から刃物が生えてきた。それが引っ込んだ瞬間、健太郎は顔面に血を浴びる。血が傷口に沁みる。
 ものの二秒で守の鮮血の勢いは収まる。健太郎の首元の手は、今にも離れそうなほど脱力している。表情が固まった守を誰かが横に払うと、体重に従うままに倒れ込む。
「ここに就職するしかなかったんは、お前やろ」
 初継が血の滴る草刈り鎌を持って立っていた。
 初継は床に鎌を放り、絶叫する初実に歩み寄る。
「初実、今日はお母さんのところで寝なさい」
 そう言う初継の顔は紛れもなく親だった。初実は鼻を激しく啜り上げながら、とぼとぼと襖から出て行った。「おかあさーん」と声を枯らして叫ぶ初実の声が、徐々に遠くなっていく。
 健太郎は状況が読めず、仰向けのまま放心していた。ただ、動悸だけが激しく高鳴っていた。恐怖とも興奮ともつかない気味の悪い高揚は、健太郎が口を利くことを許してくれない。呼吸が整う気配がない。
 初継は「痛ててて」と呟きながら、ゆっくり布団に腰を下ろして胡坐あぐらをかく。長いため息をつきながら、返り血に染まった自分の右手を眺めている。
「健太郎、すまんな」
 健太郎は何か返そうとするが、上手く声が出ない。吐息をやみくもに漏らす様子を見て、初継が「無理して話さんでもええ」と諭す。
 「どっから話そうかのう」。顔を上げた初継の表情に生気はなかった。粘度のある咳払いを一つして、語り出した。健太郎には外の雷雨が聞こえなくなっていた。
「守の夜這いは、三年半前にうちに来てからずっとや。
 こいつが大学生の頃、家にファームステイ……まあ農家に一か月泊まり込んで農業体験するっつう、学生にとっちゃ半分旅行みたいなもんやな。お前も知っとる野々村ののむらの紹介で来てな、それが最初の出会いや。守は、その間に初実に手を出しよったんや。
 わしらは当然怒り狂ったわ、十年かけて授かった娘を汚されそうになったんやからな。 
 でもな、冷静に考えたら、初実に欲情したんも守が初めてやった。今まで、おらんかったんよ、初実を女として見るやつはな。今となっちゃ、女として見とったんやなく、女として扱っとっただけだったんやけどな。
 正直、初実にいくら初夢草を飲ませても障害が治らん様には絶望してた。頭のことやなく、本当にこいつに婿が来てくれるのかってことでや。そうせんと、この家の農業を継いでくれる男児を生みおとせん。
 それで、わしら夫婦はあいつの変態性欲に賭けた。野々村に頼んで、あいつをうちに引き入れたんや。人当たりはいいし、頭の回転もそこそこ早い。仕事もきっちりこなす。性への執着がなけりゃ好青年やと思っとったんやけどな。うちに正式に就農して、一か月、たった一か月や。こいつは初実を襲った。
 そん時は、あべこべな気持ちやったで。そうなることを望んどったのに、初実のことを考えると涙が止まらん。でも、わしらは親言えど、初実の考えはようわからんのや。守に股をいじられることを悲しんどるんか、どうとも思っとらんのか、さっぱりわからん。愛だけで障害の壁は越えられんのよ。
 野々村も、守が初実を襲うことをわかってて、わしらんとこに研修させに来たんやろな。
 知っとるかもしれんが、野々村の専門は薬草、それも初夢草の研究にご執心や。野々村はガキみたいに初夢草の伝説を信じとる。いや、初夢草が鳳凰ほうおうの夢を見せたんは、草の成分が頭のニューロンをどうたらとか……わしには、難しくてようわからんがな。究明のロマンに燃えとる。
 初夢草を国内で栽培する農家はうちしかおらん。佐岡の血が途絶えたら、初夢草の生産まで途絶えるのを危惧しとったんやろう。そんで、守を子種として家に送り込んだ。
 だがな、本当に野々村の意図していることが、後継ぎを作らせることやったら、作戦は失敗や。
 昨日、朝子と初実の帰りが遅かったやろ。あれな、初実の体に問題がないか産婦人科に検査しに行ったんや。子が出来る気配が全くなかったでな。
 結果は正常やった。つまり、子が出来ないのは、守側に原因があるっちゅうことや。これがわかったんが、昨日や。
 初実の部屋のゴミ箱やらなんやらひっくり返しても、避妊具らしいもんは出て来んかった。まあ、守が隠れてどっかに持って帰ってたかもしれんがな。それか、安全日ばかりを狙ってたか。何にせよ、わしらが唇を血が出るほど噛んで耐えたこの三年半は、無駄だったってことがわかったんや。
 ただただ、娘をおもちゃにされただけやった。
 そうしたら守が憎うて仕方なくなってな。朝子も罪悪感で病んでまうし。
 ほんで、このあり様や」
 初継は守の死体を指差した。表情には依然として生気がなく、殺してしまった後悔や不安などは一切感じられない。
 健太郎は守の死体に背を向けて、震えながら上半身を起こす。目の前にいるのは、今さっき殺人を犯した男だ。
 健太郎は声を絞り出す。健太郎も当然守に怒りを覚えていた。しかし、守が死ぬほどの理由にはならなかった。
「あの、初夢草の栽培はそこまでして、受け継がなければいけないものなのでしょうか。人を……人を騙してまで、守さんの行為に無理して目を瞑ってまで、初夢草は語り継ぐべき代物なのでしょうか」
「初夢草がなくなったらわしらはどうなる」
 初継の声色は、地響きのように重かった。
「お前はわしらがあの伝説を語り継ぐためだけに、初夢草を育てとると思っとるのか。確かに、初実がそれで治ってくれりゃ万々歳とは思っとるよ、ちょっとはな。だがやな、大人のお前ならわかるやろ」
 初継は膝に肘をかけて、健太郎を睨む。臓器を鷲掴みされたような感覚にゾッとする。
「初夢なんて見んよ。そんなこと、物心ついてからわかっとる。初夢草を育てるんは、生活のためや。農家で溢れかえったこの辺で、わしらから初夢草がなくなったたらどうなる。ただの何の特色もない零細農家や。テレビも雑誌も来ない。野々村にだって、無料で初夢草の研究をさせとるわけやないで。
 お前、『山の清掃』の時、葉をちぎって野々村に送っとるやろ。隠れてやるなら、バレへんようにもっと丁寧に葉っぱちぎりいな。でもな、お前のおかげでいくらか潤ったわ。『野々村先生、こりゃあ盗人のすることやで。そんな信用に欠ける人なら、今後の初夢草の協力も考えなあかんね』なんてちっと注意したら、初夢草を五割増の値段で買うてくれるようになった。
 ほらな、わしらの食扶持は、初夢草でどうにか成り立っとるんよ」
 健太郎は伝説を否定する初継に言葉を失う。自分の信じていたものが次々にひっくり返っていく。脳が追い付かない。
 意味もなく手をばたつかせ、健太郎は言葉を吐く。
「でも、あの、これからどうするんですか。守さん、死んじゃいましたよ」
「大丈夫や。わしらには、わしらしか知らん、わしらの他に誰も足を踏み入れさせてない場所があるやろ。夜が明ける前に、そこに埋める」
 どこを示しているのか、健太郎には瞬時にわかった。【初夢草】の山だ。テレビや雑誌が来ても、山の畑は一切撮らせていなかった。
「自首しないんですか」
 健太郎は何が正しいかわからないまま聞いた。
「この話から、わしが自首を選ぶと思うたんか」
 初継の声が健太郎を抑え込む。すぐに穏やかな表情に変わり「大丈夫」と初継と続ける。
「今の言葉はきっと、健太郎の純粋な心の表れや。わしらは、その心に惚れて、お前を雇ったんや。守とは真逆のお前をな。こんなことを言うんはおこがましいがな、今日のことは勉強だと思ってほしい。すまん」
 初継は健太郎に深々と頭を下げる。一度社会からドロップアウトした自分を拾い上げ、育ててくれた佐岡家の主に頭を下げられると、健太郎は自首を薦めた自分が間違っているように感じ始める。
「いえ、俺こそ、すみません」
 健太郎の口から反射的に出た謝罪。健太郎は血みどろの部屋の中で、気を取り戻しかけていた。
「ここまで付き合ってもらったついでと言っちゃあ何やけど、ひとつ頼みがある」
 頭を下げたまま、初継が言う。
「何でしょうか」
「さっきも言ったが、今日中に守を埋めなければならん。手伝ってくれるか」
 初継の顔には血の気が戻っている。冷静になりつつあった健太郎には、それが狂気的に見えた。
 窓の外で、雨がしとしとと鳴く。雷鳴はもう聞こえない。


続く


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【罪状】著作権法違反

初実が守の携帯で見ていたアニメが、動画サイトに違法アップロードされたものだったため。

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